みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#39 基礎教理 自然法と理性

2023年11月25日 | 基礎教理

 

理性は堕落しています。なぜならば、聖書において、「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1:15)とあるからです。人間は罪を犯し、全ての人は神の前において汚れているのですから、誰一人として、自分は神なしでも正しい認識を持つことができると主張はできないはずです。

そこで、正しい認識は、生まれながらの理性によるのではなく、再生された理性(新生された心)と神の啓示によらなければならないということが必然的に言えるのです。これは、宗教的な知識だけではなく、数学・化学・物理学・体育学・工学・・・あらゆる分野について言えることなのです。あらゆる領域において、神の恵みがなければ正しい学問は形成できないとするのが聖書の主張です。学問が自律すると、バベルの塔になって、神の裁きを受けるようになるのです。

認識は、聖霊の導きを必要とします。それだけではなく、聖書から教えられる必要があるのです。聖書は聖霊が書いたものですから、直接に示される教えや幻も聖書と矛盾するわけはないのです。

自然法と呼ばれるものは、理性の自律を前提としていますから、もともと聖書の主張から大きく離れているのです。そして、このように自律の領域を作ることによって、スコラ主義は自分の首を絞めてきたのです。フランケンシュタインは主人を襲います。神から独立した領域を作ることはキリスト教にとって自殺行為です。

世界の島で、神の律法が通用されない島が一つでもあるでしょうか。姦淫・盗み・殺人が自由に行える島があるでしょうか。ありません。神はそのような自律的島の存在を許しません。そのように、政治において、経済において、学問において、芸術において、神から自律して存在する領域は一つとしてないのです。

◇◇

生まれながらの人間に備わっている才能や良心は、すべて神から出たものですから(「よいものはすべて神より出る」)、これが一定の役割を演じていることはカルヴァンも認めているところです。つまり、聖霊の一般恩恵において、神は人間が最悪の状態に陥らないように抑制の恵みを与えておられるので、人間はとことん悪いことができないのです。しかし、人間の罪性を考えるときに、我々がこのように安全な市民生活を送ることができるのも神の抑制の恵みがあるからでしょう。もしクリスチャンではない日本人から抑制の恵みが取り去られれば、夜は恐ろしくて外を歩くことができなくなるでしょう。ですから、最終的に自然法ではだめだということをふまえた上で、社会秩序を保つために自然法はある程度役立ちます。

しかし、自然法に究極的な位置を与えることはキリスト教においてけっして許されるものではないと考えます。なぜならば、自然法は聖書の神を主権者として置いてはいないからです。パウロは次のように述べて、最終的にキリストを主権者として認めない教えを撲滅しなければならないとのべています。

私たちは、様々な思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させます。また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです(2コリント10:5∼6)

この箇所では、いわゆる「中立領域」を認めてヒューマニズムに場所を与えることを許す考え方は存在しません。あくまでも、最終的にクリスチャンは、あらゆるキリストに逆らって立つ様々な思弁や高ぶりやはかりごとを撲滅して、キリストに服従させなければならないのです。つまり、キリストの主権を前提としないあらゆる「一見問題のないように見える」領域を罪と断定し、それをキリストの主権を前提としたものに変えていく責務がクリスチャンには与えられているのです。(たしかに、この世においては大きな限界があるわけですが。)

それは強制的・武力的に行われるものではありません。あくまでも、自発的な回心による漸進的変化を待たねばならないのです。これは、聖霊の働き以外の何ものでもありません。聖霊が人の心に働きかけてその人を内側から変えていくことによって、神の御業は前進するのです。

自然法や人間の良心は明らかに神から出ている部分があります。しかし、それは罪によってけがされており(邪悪な良心)、その罪は必ず実を結ぶのです。それは歴史が進むにつれて明らかになっていきます。毒麦もよい麦も中間時代においては違いはありません。しかし、毒麦はサタンに由来していることが時間と共に明らかになるのです。自然法の中に潜む反キリスト性は、やがて衆目の前に明らかになるでしょう。いや、もうすでにヒューマニズムが殺人的で、非人間的であることは、フランスやソ連やカンボジアや中国やベトナムで殺されたり収容所に送られた幾億もの人々の犠牲が示しているではありませんか。生まれながらの人間はやはり蛇のすえなのです。神とは別に倫理を築き上げるという試みは、サタンの誘惑以外の何ものでもないのです。彼らに任せておいてはだめなのです。

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」 (黙示録22:11)

◇◇

聖書的キリスト教は、宇宙が神によって創造され、神の法によって統治されていると考えます。それは、神という人格者の意思によって統治されており、この意思の外において起こることは一切ないし、また、神の意志に反して行われることはすべて刑罰の対象となるという意味で神の法は絶対なのです。ですから、聖書の三位一体の神とは無関係に存在する自然法などというものは、聖書的キリスト教において絶対に認められないのです。それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無効にしていくべきであります。

19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。個人や社会の倫理を決定するものが「誰かはわからないが、とにかく宇宙を統治している神的存在」であるという信仰は、適者生存、自然淘汰の「弱肉強食」的世界観によって破壊されたのです。秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。これは、もはや universe ではなく、multiverse です。つまり、多神教の世界観なのです。唯一神による統一的宇宙ではなく、多くの神々の支配する多元的宇宙なのです。20世紀は、自然法の死と同時に、多神教の時代を迎えたのです。この意味で、アダムにおいてサタンが実現した「法の制定者としての人間」像が復活しました。

人間が神とは無関係に善悪を決定していくという考えは、今日世界に満ちています。中絶賛成、死刑制度反対、自由恋愛・・・。こういった無秩序は、人間が宇宙に統一的な法を認めないことから起こっています。聖書的キリスト教を土台として作り上げられた西洋キリスト教文明は、このような多神教的無律法主義によって破滅の危機に瀕しているのです。

では、どこからこのような問題が発生したのか。その発端は、キリスト教が、理性を堕落の影響の埒外において、神の法によらずとも、人間理性のみによって認識し、統治できる領域を許容したところにあります。このようなギリシャ無神論に起源を持つ自然法思想の混入を許したところにキリスト教の堕落が始まったと見ることができるのです。宗教改革はある程度この問題を解決しました。「聖書のみ。信仰のみ」の原則は、自然法へのある程度の制限を設けました。しかし、それが徹底したものでないところに、十分な改革が行われず、今日のような世俗化を許した元凶があると見ることができます。

 

 

 

 

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