信仰の弱いクリスチャン、あるいはただ聖書に興味のあるノンクリスチャンの聖書の読み方は大変雑なように思われる。ネットの聖書関連の記事を読めば実感できるはず。中にはちゃんと論理立てて考察している記事もあるが極めて稀。
彼らは文脈を無視するのみならず、単一の文章内ですら書いてあることばを無視する。従って、その結論は、当然私的解釈のそしりを免れない。
誤読、私的解釈をしているようでは、とてもじゃないが神の武具を身に付けているとは言えない。
以下の記事を用いて検証していく。
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これから起こるべきことは、聖書の様々な個所に記されています。現在私たちが生きているのは、黙示録20章の千年王国の時代です。
キリストは、敵が制圧されるまで天にとどまっておられます。
「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル1012・-13)
「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物が元の状態に回復する時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)
敵を征圧するのは誰の責任かと言えば、それはクリスチャン(と神の共同作業)です。具体的に言うと、それはクリスチャンの祈り。
「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(ローマ16・20)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・11-12)
クリスチャンは、諸国民、諸民族をキリストの弟子とするためにサタンと闘います。
「行ってすべての民族を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、私が命じたことをすべて守り行うよう教えなさい。」(マタイ28・19-20)
それゆえ、すべての民族がキリストの弟子とならない限り終末はきません。
ただし、そのタイミングは人の目には見えず、只々神の目、すなわち神の御心によります。
よくキリスト教の雑誌などの文章において、「終末の時代」とか「終わりの時」とかよく言われます。
しかし、今が終わりの時代であることを証明する個所は聖書にはありません。彼らは主にマタイ24章の「前兆」を世界の終末のそれと解釈しているのですが、マタイ24章が世界の終末についての預言ではない以上、それをもって現在が終末であると示すことはできません。
そもそも、聖書において「終わりの日」の意味は様々です。
「しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。――主の御告げ。――」ここまではモアブへのさばきである。」(エレミヤ48・47)
モアブに対する裁きの日が終わりの日であるといいます。もちろん、この裁きはすでに過ぎ去っていますので世界の終末と解釈できません。
「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』」(使徒2・17)
この預言は、ペンテコステの日に成就しました。つまり、使徒の時代が終わりの日なのです。
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです」(2テモテ3・1-5)
これは、よく世界の終末における享楽的・退廃的世相をあらわすと解釈されています。しかし、聖書は歴史的文脈から離れて解釈してはならないのです。パウロは、誰に向ってこの手紙を書いたのでしょうか。テモテです。彼は、テモテに対して緊急の警告をしています。その時代が近づいていると。
ただし、この聖句に限らず、聖書のあらゆる箇所は、普遍的教訓として捉える必要があります。特に、旧約聖書は日常生活指針として大変有用です。例えば、「同じ畑にふたつの種を蒔いてはいけない。」何に対する教訓かは、当ブログ読者諸氏なら熟知していると思う。
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4・3-4)
そしてそのような時代に対してどのように対処すべきかを教えています。
この聖句も、現代のクリスチャンに対する警鐘と捉えるべきです。
聖書は選ばれし民が救いを達成するための普遍的生活指針。
「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(2テモテ4・5)
このことから、どうしてこれが「世界の終末」を表すといえるでしょうか。この「終わりの日」とはテモテが直面していた時代のことを指すのです。
この聖句も、すべてのクリスチャンに対する教訓と捉えたい。聖化の道程を突き進んでいくための必要事項。見える世界にではなく、目には見えない世界に目を向けて歩む。
ヘブル12:1-2a
ういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
現在、ディスペンセーション主義のキリスト教が、我々に吹き込んでいる終末預言は、歴史的文脈を無視した私的解釈に基づくものです。いろんな聖書の個所を自分の都合にあわせて断片的に寄せ集めたものでしかありません。
*聖書は、一貫して歴史の進展と福音の勝利を教えているのです。