みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#185 終末預言 ディスペンセーション主義の正体はNWO

2023年11月23日 | 終末預言 

*NWO=New World Order 新世界秩序 

1.

William R. Kimball, "Rapture a Question of Timing"によると、ディスペンセーション主義の祖にしてイエズス会司祭インマヌエル・ラクンザの著書『栄光と威厳の中でのメシアの来臨』のペン・ネームは、ラビ・ジュアン・ジョシャファト・ベン・エズラであった。

エドワード・ヘンドリーは、この名前がラクンザの出自を示しているという。

すなわち、彼は実際にユダヤ教のラビであった可能性があると。

ラクンザは隠れユダヤ人であり、この本を自分の本当の姿、つまりユダヤ教のラビとして書いた可能性がある。彼にはラビに求められる知識があり、それを含む本を著すために、ユダヤ教を学んだに違いない。

(Edward Hendrie, "Bloody Zion: Refuting the Jewish Fables That Sustain Israel's War Against God and Man", p.95)

ディスペンセーション主義のプレ・ミレの教義を作ったもう一人フランシスコ・リベラもイエズス会司祭で、隠れユダヤ人である。


2.

マーシャル・ホールは、ディスペンセーション主義の起源は、ラクンザよりも古いという。

一般的な研究者がディスペンセーション主義・シオニズムの起源をラクンザとするのに対して、マーシャル・ホールは、それをラクンザよりもさらに古い時代に求めた。

ホールによると、偽りの終末論の源流は、13世紀のユダヤ教ラビ、モーゼス・ベン・ナーマン・ジェロンディ(Moses ben Nahman Gerondi)にあるという。

ラビ・ベン・ナーマン(別名ベン・ナクマン)は、ユダヤ百科事典において「ジローナ生まれのスペイン人タルムード学者、釈義学者及び医師」と紹介されている。155 

ユダヤ人百科事典では、さらに、ベン・ナーマンがディスペンセーション主義に立つ著作を何冊か書いたと示唆している。

ベン・ナーマンによると、「救い主の千年王国」は、救い主イエス不在のそれである。

ユダヤ人の顕著な特徴は、救い主としてイエスの拒絶であるが、ベン・ナーマンも例外ではない。

記録によると、ベン・ナーマンは次のように述べたという。「イエスが救世主であったはずがない。なぜならば、メシアは、イエスが自称したような神ではなく血肉を持つ人間でなければならないからだ」と。157

ベン・ナーマン、ラクンザ、そして、リベラ、みな隠れユダヤ人である。

ディスペンセーション主義の起源は、ユダヤ教である。

3.

ラクンザとリベラは、ユダヤ教の終末論「プレ・ミレ」をディスペンセーション主義に注入した。

それは、神殿における動物犠牲の復活であり、その神殿を中心とした世界政府、そしてその当然の帰結としての、ユダヤ人による世界支配である。(前掲書、p.95)

ディスペンセーション主義の正体とは、NWOの実現のための教え、つまりイ〇ミ〇ティなのである。

ディスペンセーション主義を奉じる教会は、心して聞いてほしい。

あなたの教会がディスペンセーション主義を奉じている限り、あなたはサタンを助け、彼のために働いているのである!!!

4.

キリスト教にディスペンセーション主義を潜入させた目的は、アメリカによるシオニズムへの財政支援であった。

1800年代に、シオニストユダヤ人は、米国からの財政的支援を必要としており、それなしでは、彼らの新イスラエル建設計画は失敗に終わる可能性が高かった。

当時、米国はキリスト教が支配する国であった。

パレスチナを征服し、その地域にイスラエル国を再建するという試みは、ことごとく当時政治的に影響力を持っていたクリスチャンたちからの抵抗を招く恐れがあった。

米国において支配的であったクリスチャンは、再建されたイスラエル国への出資において障害となっていた。

シオニストは、クリスチャンによるシオニズム計画への抵抗を取り除く必要があると考えた。

そして、プロテスタント教会のキリスト教神学を、イスラエル国に都合のよいものに変えなければならないと判断した。(前掲書)

現代のクリスチャンは、シオニストによってNWOのために働かされ、資金提供し、パシリにされている。

一刻も早く騙しから解放され、御国の拡大のためにまい進して欲しい。 

 

 

 


#183 終末預言 預言の私的解釈は罪

2023年11月23日 | 終末預言 

 

預言の私的解釈は罪です。

それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(第2ペテロ1:20)

今日、666がこれから登場する、これから大患難時代がくる、10カ国同盟から反キリストが現れて、ロシアがイスラエルに攻め込む、といった預言解釈が巷に出回っていますが、これは、聖書解釈のイロハを無視した私的解釈であり、決して小さな罪ではありません。

聖書は、第一に書かれた当時の歴史的・社会的状況、全体の文脈を無視しては正しく解釈できません。聖書の手紙をはじめとして、様々な預言書は、第一義的に「当時の人々に語られたものである」ということがないがしろにされてはなりません。黙示録は、第1世紀のクリスチャンに宛てて書かれているのであって、30世紀の日本人を、あるいは35世紀の中東を想定して書かれているわけではありません。

聖書は、勝手な読み込みをしようと思えばどのようにも解釈できます。オウムの麻原教祖でさえ聖書を用いて預言をしています。聖書は、絶対に勝手な読み込みをしてはならないのです。聖書全体と調和しないいかなる解釈も断固として排除すべきです。パウロは自分たちを「神の奥義の管理者」であると呼びました。そして、「管理者には忠実であることが要求されます」と述べています。アパートの管理人は、オーナーに対して忠実でなければクビにされてしまいます。勝手にアパートの壁の色を変えたり、建て増ししたりすれば処罰されるのです。私たちも、神の御言葉に何かをつけ加えたり、それから何かを差し引いたりできません。黙示録には、次のように書かれています。「これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18ー19)

ある人は、「携挙が1988年に起こる88の理由」という本を書きました。しかし、彼はまだこの地上にいます。1980年代に様々な預言解説書を書いた人は、自分のはずれた予測によって人々が「聖書はまやかしものだ」という印象を持ったことに責任を感じなければなりません。こういった解説書の与えた悪影響はけっして小さなものではありません。

人間が書いた古文書や手紙について勝手な読み込みをしても、それほど大きな問題ではありません。しかし、神の御言葉を勝手に解釈することは自分の身に裁きを招きます。