みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#183 終末預言 預言の私的解釈は罪

2023年11月23日 | 終末預言 

 

預言の私的解釈は罪です。

それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(第2ペテロ1:20)

今日、666がこれから登場する、これから大患難時代がくる、10カ国同盟から反キリストが現れて、ロシアがイスラエルに攻め込む、といった預言解釈が巷に出回っていますが、これは、聖書解釈のイロハを無視した私的解釈であり、決して小さな罪ではありません。

聖書は、第一に書かれた当時の歴史的・社会的状況、全体の文脈を無視しては正しく解釈できません。聖書の手紙をはじめとして、様々な預言書は、第一義的に「当時の人々に語られたものである」ということがないがしろにされてはなりません。黙示録は、第1世紀のクリスチャンに宛てて書かれているのであって、30世紀の日本人を、あるいは35世紀の中東を想定して書かれているわけではありません。

聖書は、勝手な読み込みをしようと思えばどのようにも解釈できます。オウムの麻原教祖でさえ聖書を用いて預言をしています。聖書は、絶対に勝手な読み込みをしてはならないのです。聖書全体と調和しないいかなる解釈も断固として排除すべきです。パウロは自分たちを「神の奥義の管理者」であると呼びました。そして、「管理者には忠実であることが要求されます」と述べています。アパートの管理人は、オーナーに対して忠実でなければクビにされてしまいます。勝手にアパートの壁の色を変えたり、建て増ししたりすれば処罰されるのです。私たちも、神の御言葉に何かをつけ加えたり、それから何かを差し引いたりできません。黙示録には、次のように書かれています。「これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18ー19)

ある人は、「携挙が1988年に起こる88の理由」という本を書きました。しかし、彼はまだこの地上にいます。1980年代に様々な預言解説書を書いた人は、自分のはずれた予測によって人々が「聖書はまやかしものだ」という印象を持ったことに責任を感じなければなりません。こういった解説書の与えた悪影響はけっして小さなものではありません。

人間が書いた古文書や手紙について勝手な読み込みをしても、それほど大きな問題ではありません。しかし、神の御言葉を勝手に解釈することは自分の身に裁きを招きます。

 

 


#37 基礎教理 神は全能か?

2023年11月22日 | 基礎教理

 
神は全能か?という疑問はナンセンスである。

神の能力が全能なのだ。

なぜならば神は無から世界を創造されたからである。

神の前になんらかの世界が先在していたというなら話は別である。

しかし、もしそうなら、それは神ではない。

万物が神から出ており、空間も時間もあらゆる存在が神から出ているのであれば、ものごとを神を基準としないで定義することは無意味なのだ。

神は善か?という問いは無意味である。

それは、神の前に何らかの善悪の基準が存在することを前提としているからである。

1mを定義する原器(単位標準器)に向って「この原器は1mか?」と問いかけるのが無意味であるのと同じである。

神は存在するか?という問いも無意味である。

神こそが存在の根源だからである。

 

 


#36 基礎教理 パラダイスにいる人々

2023年11月22日 | 基礎教理

 

Q. 

マタイ16:28に「はっきりといっておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

これはヨハネのことですか?

イエス様はヨハネの福音書で「それがあなたに何のかかわりがありますか」といわれたので、このことにこだわるのは意味がないとは思いますが、私個人の想いで「ヨハネはどんな気持ちで2000年間、そして今をすごしているんだろう。」と気になってしまったのでこのように質問させていただきました。

 
A.

マタイ16・28は、終末に現われるキリストの再臨を指しているのではありません。

当時生存していた人々はすでに全員が死亡しており、現在まで生き残っていると考えることは当然できません。

この個所は、ジョン・ギルのように、次のように解釈すべきでしょう。「それは、キリストが死人のうちよりよみがえり、天に昇られ、聖霊の偉大な傾注が起こり、福音が全世界に伝えられ、しるしと不思議が伴ない、多くの魂が回心と救いを経験することを、当時生きていた人々が見るということを意味している。しかし、この個所の最も中心的な意味は、ユダヤ人を裁くためのキリストの来臨[訳注:紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム崩壊とユダヤ民族のパレスチナからの追放]である。キリストは、王としての力と権威を彼らに示し、自分を王として迎えなかったこの敵どもを御前において処刑された。これを個人として目撃したのは、使徒ヨハネだけであった。」

 
つまり、キリストが「わたしが来るまで生き残る人がいます」と言われたのは、ヨハネをさしていたのであり、ヨハネはこの予言どおりに、一人生き残って、紀元70年のユダヤ滅亡を目撃したのです。キリストは、王として御自分を迎えなかったユダヤ民族を処刑するために来臨されました。これは、目に見える形の来臨ではなく、ローマ軍という形での来臨でした(神が来られるという預言を常に文字通りの可見的来臨を意味すると考えることはできません。旧約聖書では、「主が来られる」という預言(イザヤ19・1など)が、外国の軍隊による襲撃や捕囚によって成就したことが記されています)。


ヨハネは現在、霊において、パラダイスにいます。パラダイスにいる人々(犠牲による贖いを受けたアダムやエバも含まれる(創世記3・21))は、イエスやクリスチャンとともに、世界を支配しており(黙示録20・4)、地上でのクリスチャンの活動や戦闘を支援しています。彼らは祝福と幸いの中におり、神の御心を完全に理解しています(ルカ16・23、1コリント13・12)。

 

 


#183 終末預言  神の国について

2023年11月21日 | 終末預言 

キリスト教の最終目的は神の国の完成である。

しかし、これは、よく映画などで描き出されるような「お花畑が限りなく広がる異次元の楽園」などではない。

「全世界に出ていって、あらゆる国民を私の弟子とせよ。バプテスマを授け、私があなたがたに命じたすべての教えを守り行うように教えよ。」という昇天時のイエス・キリストの教えを実行し、きわめて高いレベルにおいて「御心が天で行われるように、地上でも行われるように」なることが神の国の完成である。

すなわち、第1義的に、神の国とは、地上的なものなのである。

もし、神の国が天上的なものでしかないならば、イエスは、けっして「御心が天で行われるように、地上でも行われるように」とは言わなかったはずである。

そもそも、アダムは、神の命令を完全に守り、神の御心にかなった文化・文明を建設することによって、永遠の生命と、永遠の報酬を受け取れるはずであった。しかし、堕落によって、彼は失敗者となり、それゆえ、神からの報酬を受け取ることができなくなってしまった。

失敗者アダムに代わって登場したのがイエス・キリストである。イエス・キリストは神の命令を完全に守り、永遠の生命と永遠の報酬を受け取る資格を得た。

イエス・キリストを信じる者はだれでも、このような生命と報酬を受けることができるのである。

イエス・キリストの体なる教会(エクレシア:クリスチャンの集団)は、神の国をこの地上において発展させ、「あらゆる敵が足台となるまで」サタンと戦う。

歴史の終わりに、イエス・キリストは、完成された神の国を父に献上される。

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 」(第1コリント15・24)

この時、この世全体とクリスチャンの体が霊的な体として復活し、永遠の生命と永遠の世界に移行するのである。

「血肉の体では、神の国を相続することはできない。朽ちるものでは、朽ちないものを相続できない。」(第1コリント15・50)(*)


(*)神の創造の目的は、朽ちるものではなく、朽ちない完成体を作ることであった。

すなわち、われわれが現在暮らしているこの朽ちる世界は、あくまでも一時的なものでしかなく、神の最終目的ではない。

アダムとその子孫が神とともに住み、永遠に神の創造を共に喜ぶことが創造の目的であった。

アダムは、この被造世界支配に失敗した。それゆえ、アダムから生まれるアダム族の人々は、失敗者とみなされる。

キリストは、アダム族に属するのではなく、処女降誕により、まったく新しい肉体を与えられて地上にやって来た新人類である。彼は、完全に律法を守り、神から合格者とみなされた。それゆえ、キリスト族に属する人々(信仰によってキリストとつながれた人々:キリストと一体である象徴が聖餐のパンと葡萄酒である)は、キリストと共に被造物を管理する責任があり、被造世界を神の御心にしたがって完成し、それを献上する責任がある。この責任をまっとうしたら、神は世界を更新され、永遠の世界が到来する。永遠の世界は、神がキリスト族に与えられる褒美である。この時に、神の創造の目的が達成されるのである。

 

 


#2 進化論 進化論は時間のマジックである

2023年11月20日 | 進化論の非合理性

進化論は、時間のマジックである。

普通、人間には合理的にものを考える能力が備わっているのだから、偶然が積み重なって、生物が現在の姿にまで進化したなどという話しを常識人が信じるわけがない。

しかし、進化論者は、途方もなく長い時間を想定して、このような空想話を信じさせる。

「45億年の長い間に生物は徐々に・・・を獲得し、・・・」

だが、不可能なものは何億年まっても不可能なのだ。

1組のボルトとナットすら、何億年待っても偶然にできるわけがない。

血液凝固のシステム1つ完成させるのですら、何百億年まっても不可能である。

たんぱく質は、アミノ酸によって成り立つが、システムを完成させるのに必要なたんぱく質を偶然に獲得するには途方もない時間がかかる。

アミノ酸には20種類あるが、100個のアミノ酸からなる最も小さな部類のたんぱく質を獲得することですら、20の100乗分の1の確率でしかない。これは、実質0である。

とんでもなく複雑な血液凝固のシステムが成立するのを何億年もまっていては進化どころか種の生存すら不可能である。

血液が凝固しなければほとんどの生物は進化の過程に入るまえに死に絶えてしまう。

血液凝固のシステムは神が与えたものだ。だから、とんでもなく複雑で、一つのステップを省いても、凝固が完了しないような微妙なシステムが成立している。

*凝固系をネットで調べて下さい。多くの凝固因子が関与しているのが分かる。

これ以外にどのような説明が可能なのか。

進化論者は、このことについて納得のいく説明ができるのだろうか。

 

 

 


#182 終末預言 人類史の終焉~これから起こるべき終末預言

2023年11月19日 | 終末預言 

 

信仰の弱いクリスチャン、あるいはただ聖書に興味のあるノンクリスチャンの聖書の読み方は大変雑なように思われる。ネットの聖書関連の記事を読めば実感できるはず。中にはちゃんと論理立てて考察している記事もあるが極めて稀。

彼らは文脈を無視するのみならず、単一の文章内ですら書いてあることばを無視する。従って、その結論は、当然私的解釈のそしりを免れない。

誤読、私的解釈をしているようでは、とてもじゃないが神の武具を身に付けているとは言えない。

以下の記事を用いて検証していく。

◇◇


これから起こるべきことは、聖書の様々な個所に記されています。現在私たちが生きているのは、黙示録20章の千年王国の時代です。

キリストは、敵が制圧されるまで天にとどまっておられます。

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル1012・-13)

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物が元の状態に回復する時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)

敵を征圧するのは誰の責任かと言えば、それはクリスチャン(と神の共同作業)です。具体的に言うと、それはクリスチャンの祈り。

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(ローマ16・20)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・11-12)

クリスチャンは、諸国民、諸民族をキリストの弟子とするためにサタンと闘います。

「行ってすべての民族を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、私が命じたことをすべて守り行うよう教えなさい。」(マタイ28・19-20)

それゆえ、すべての民族がキリストの弟子とならない限り終末はきません。

ただし、そのタイミングは人の目には見えず、只々神の目、すなわち神の御心によります。

よくキリスト教の雑誌などの文章において、「終末の時代」とか「終わりの時」とかよく言われます。

しかし、今が終わりの時代であることを証明する個所は聖書にはありません。彼らは主にマタイ24章の「前兆」を世界の終末のそれと解釈しているのですが、マタイ24章が世界の終末についての預言ではない以上、それをもって現在が終末であると示すことはできません。

 

そもそも、聖書において「終わりの日」の意味は様々です。

「しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。――主の御告げ。――」ここまではモアブへのさばきである。」(エレミヤ48・47)

モアブに対する裁きの日が終わりの日であるといいます。もちろん、この裁きはすでに過ぎ去っていますので世界の終末と解釈できません。

「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』」(使徒2・17)

この預言は、ペンテコステの日に成就しました。つまり、使徒の時代が終わりの日なのです。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです」(2テモテ3・1-5)

これは、よく世界の終末における享楽的・退廃的世相をあらわすと解釈されています。しかし、聖書は歴史的文脈から離れて解釈してはならないのです。パウロは、誰に向ってこの手紙を書いたのでしょうか。テモテです。彼は、テモテに対して緊急の警告をしています。その時代が近づいていると。

ただし、この聖句に限らず、聖書のあらゆる箇所は、普遍的教訓として捉える必要があります。特に、旧約聖書は日常生活指針として大変有用です。例えば、「同じ畑にふたつの種を蒔いてはいけない。」何に対する教訓かは、当ブログ読者諸氏なら熟知していると思う。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4・3-4)

そしてそのような時代に対してどのように対処すべきかを教えています。

この聖句も、現代のクリスチャンに対する警鐘と捉えるべきです。

聖書は選ばれし民が救いを達成するための普遍的生活指針。

「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(2テモテ4・5)

このことから、どうしてこれが「世界の終末」を表すといえるでしょうか。この「終わりの日」とはテモテが直面していた時代のことを指すのです。

この聖句も、すべてのクリスチャンに対する教訓と捉えたい。聖化の道程を突き進んでいくための必要事項。見える世界にではなく、目には見えない世界に目を向けて歩む。

ヘブル12:1-2a
ういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

現在、ディスペンセーション主義のキリスト教が、我々に吹き込んでいる終末預言は、歴史的文脈を無視した私的解釈に基づくものです。いろんな聖書の個所を自分の都合にあわせて断片的に寄せ集めたものでしかありません。

*聖書は、一貫して歴史の進展と福音の勝利を教えているのです。

 

 

 


#181 終末預言 現代はメシアの時代である

2023年11月17日 | 終末預言 

メシアの時代が到来するとディスペンセーション主義のプレミレの人々は叫んでいる。

しかし、メシアが降誕し、十字架にかかり復活して昇天し、天地における王になったときに、メシアの時代は到来した。

我々が生きている現代もメシアの時代である。

「え~!! 現代がメシアの時代だって?? ウクライナ戦争、ガザ戦争、流行り病い… こんな時代がメシアの時代???」と彼らは言うだろう。

しかし、我々がどう感じるかは問題ではない。

問題は聖書が何を言っているかである。

聖書は、世界はキリストの王国になったと宣言している。

キリストが昇天された時に、「天においても地においても、一切の権威が私に与えられた」(マタイ28章)と聖書において宣言されている以上、「メシアの時代」が到来したと考える以外にない。

「いやいや、今日の悲惨な世界の現状を見るときにそのようなことは信じられない」というならば、それは不信仰による。信仰とは、目に見えるものに頼ることではなく、目に見えないものに期待をおくことだから。

どんなに目の前の状況が悲惨であっても、聖書が「メシアの時代がきた」と宣言したら、「はい、そのとおりです」といわねばならない。聖書を前にして、我々に御託を並べる権利はない。

このような文句を言う人々は、みな一様に先入観に支配されている。それは、「メシアの時代は、完全に平和で幸せな時代である」という先入観である。

しかし、聖書は、メシアの時代とは戦いの時代だと証言している。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです(ルカ11:20)。」

ここで神の国は、悪霊どもを追い出した「結果」到来するとは書かれていない。悪霊どもを追い出す「過程」で到来しているといわれている。

つまり、神の国は、暗闇の勢力との戦いと共存するといわれている。

マタイ11:12
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 

「再臨のイエスが、悪霊たちをたち滅ぼして、もはやいかなる敵対も、戦いも、妨害もなくなった」時代を神の国とかメシアの国と聖書には書かれていない。

現在、我々クリスチャンは、悪霊の攻撃にさらされている。戦いが継続しながら世界の弟子化は進展していく。

これこそ、メシアの時代の特徴なのだ。メシアの時代は、「戦闘の時代」なのだ。しかし、この戦闘は我々の勝利に終わる。なぜならば、キリストが天地の王だからだ。

キリストは法的に主権者である。しかし、実際の世界はまだキリストの主権を認めようとはしない。つまり、実際的には主権者ではない。しかし、法的な主権者であるならば、時間とともに実際的な主権者になることは明らかだ。

キリストが世界の実際的な主権者となるには、我々の戦いが必要である。キリストは、我々を戦士として召しておられる。我々がサタンと戦うことなしに、キリストが主権を取られることはない。

再臨のキリストは、総大将として、サタンにとどめを刺すために来られる。

敵地を獲得する場合、最初に元帥クラスの将校が乗り込む戦争などない。

最初に切り込むのは、兵隊である。兵隊が敵陣をつぶした後に、総大将がやってくる。

しかし、プレミレの図式では、兵隊がやっても無駄だから、総大将が切り込まなければならないと教える。

「再臨が来るまで、我々はサタンに勝つことはできない」と彼等は教える。

現代はメシアの時代である。

メシアの時代は、戦いの時代である。メシアはすでに天地の王である。だから、この戦いは我々の勝利に終わる。我々が勝利するのは、歴史が始まる前から神が定めておられる運命なのだ。我々には、勝利以外ありえない。

だから、確信を持って我々はサタンと戦わねばならない。

 

 

 


#44 救いの達成 Galatians - John H. Gerstner

2023年11月16日 | 救いの達成

ガラテア書に関するメッセージ

Galatians - John H. Gerstner

シリーズになっているので参考になると思い、拝聴する予定でした。しかしながら、先に拝聴したR.C. SproulによるメッセージWhat Is the Gospel? など、ガラテア書を引用するメッセージは多数存在しており、改めて通読する必要はないように思われる。

改革派神学のメッセージであれば、致命的な誤解釈は避けられるはず。John MacArthur師はやや異質で、福音派プレミレ教信者だが、それ以外の教理においては、R.C. Sproulと見解がほぼ一致するため参照できる。

真の福音のみならず聖書全体についての正確な認識があれば、偽福音、偽預言、異端、リベラルに関する知識はなくても別段気にする必要はない。

かつて当ブログに投稿した、ガラテア書に関する過去記事を再考・修正しておく。

1.

the works of the lawの訳出についてだが、素直に「律法を行なうこと」と訳出する方が良い。ガラテア2章前半の要旨は、割礼を施すことは福音の真理に反するということ。割礼を施すということは律法を行なうことであり、律法の働き(作用)と抽象的に捉えることは的外れと思われる。

律法の働き(作用)が福音に反する、すなわち悪であるならば、なぜ神は悪なるものを民に与えたのかという疑義が生じる。

福音も律法も絶対(神レベルの)善のはず。

絶対善であるがゆえに、それをパーフェクトにこなさなければ義と認められないどころか、行なおうとすればするほど罪を積み上げていく(ガラテア3:11)ということ。

命の御霊の律法⊃モーセ律法

ではない。この教えは異端。

命の御霊の律法=モーセ律法=告発者としての律法

これが真理(ローマ書7:25、同8:2)。

2.

ガラテア3:10
・・・「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる(申命記27:26)。」

すべてのことを堅く守って実行できないので、呪いの下にいる。できるのは主イエスのみ。

論旨は単純明快。当たり前のことが書かれている。

3.

ガラテア3:22
・・・それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。


that the promise by faith of Jesus Christ might be given to them that believe.
(KJV)

イエスキリストの信仰による約束が信じる人々に与えられるように

「イエスキリストの信仰による」の「~による」は、εκ(out of)なので、イエスキリストの信仰に由来する約束、という意。

4.

ガラテア3:26
 あなたがたはみな
キリスト・イエスに対する信仰によって
神の子どもです

原典を直訳すると

キリストイエスにある信仰によって(を通して)あなたがたはみな神の息子(子)。

5.

ガラテア5:5
ημεις γαρ πνευματι εκ πιστεως 
ελπιδα δικαιοσυνης απεκδεχομεθα

直訳する。

私たちは、信仰から出る霊に、義の希望を大いに期待している。

信仰から出る(εκ、由来の)霊とは何か。

これまでの学びから推察すると、新生の時に神によって与えられた霊(エゼキエル36:26)と思われる。

6.

ガラテア6章。

教会内のことが書かれている。

ここも余計なことは考えずに、素直に読んで、素直に理解して良いと思う。

 

 

 


#181 終末預言 黙示録20章再考 NO.1

2023年11月15日 | 終末預言 

初めに、前回記事に訂正があります。

オーガスティン→アウグスティヌス

パウロは未知の義(alien righteousness)と名付けた→ルターは未知の義(alien righteousness)と名付けた。

◇◇


黙示録20:1~10
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。


黙示録の「愛された都」とはどこを指すのか。


黙示録20章までは、すでに紀元70年以前に起きている。

なぜならば、黙示録は小アジアに住む7つの教会のクリスチャンに向けて書かれた「手紙」だから。

ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。(黙示録13・18)

ヨハネを通じてイエスは「数えなさい」と誰に命令したのか。

紀元1世紀の手紙の読者である。

それゆえ、黙示録19章までの大患難は、紀元70年までに起きたと信じなければならない。

ディスペンセーション主義が未来預言として解釈しているこれらの終末の記事は、「旧約のイスラエルと当時の世界に対する裁き」についてである。

黙示録20章からは、紀元70年以降についてである。

フルプレテリズムは、この千年もすでに紀元70年までに起きたと解釈するが、間違いである。

いくらなんでも「千年」のタイムスケールを、ヨハネからの手紙を受け取ってから紀元70年までの10年未満に適用できるわけがない。

カルヴァンは、この千年を「戦う教会の時代」と解釈した。

つまり、われわれが生きている時代である。

ディスペンセーション主義の人々は次の箇所のゆえに、今が千年王国ではないと主張する。

「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」

「サタンが縛られている?この悪魔的な世界で?」と。

たしかに現状を見ると、「諸国の民を惑わすことのないように」されていないと感じる。

2つの可能性がある。

(1)

「いや、世界は惑わされていない。聖書が世界中に行き渡り、ネットで誰でも自由に読める時代になっているではないか。」という立場。

(2)

「文字通り紀元千年までは惑わされていなかった。しかし、十字軍なるシオニズム運動が開始されてから、サタンは活動を再開した。十字軍に端を発し、フリーメイソンやイルミナティ、タルムードユダヤ教徒たちがエルサレム奪還、イスラエルの建国、神殿を建てて、偽メシアを擁立しようとしてきた」という立場。

私は、以前は(1)を採用していたが(2)の可能性もあると考える。

ディスペンセーション主義を通じて、クリスチャンすらも騙されて、シオニストにされている。

世界各国には、中央銀行が設立され、不換紙幣によって、国民は合法的に略奪されている。

現在、世界は、エルサレムを中心とした世界政府樹立に向かって進んでいる。

4.

いずれにしろ、解放されたサタンができることは限られている。

しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。

偽書「シビュラの託宣」では「ゴグとマゴグ」をモエシアとダキアとして描いている。

これらの地域は、現在のブルガリアやルーマニアの地方であり、いわゆる東欧系ユダヤ人の故郷である。

タルムードユダヤ教を信じる東欧系ユダヤ人は、ドイツを経由してアメリカに移民し、現在のハリウッドを作った。

メディアが左翼によって牛耳られているのは、彼らシオニストたちが支配者だからである。

クリスチャンに対する攻撃は「天からの火」によって「焼き尽くさ」れる。

ディスペンセーション主義は「愛された都」をエルサレムと言うが、今のエルサレムを支配しているのは、シオニストとタルムードユダヤ人であり、イエスを十字架につけたことに賛同する人々である。

これをエルサレムと解釈すると、シオニストの罠に巻き込まれる。

5.

「千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした」とある。この箇所は、「千年が終わると、サタンは解き放たれて、その惑わしは限定されつつも激化する」と言い換えることができる。

911のあたりから、敵の惑わしや悪業、反聖書的な考え方やイデオロギーは明らかに激化している。これまでは水面下で行われていた悪行も大っぴらに行われ、この世はサタンの軍勢のやりたい放題の場と化している。つまり、千年王国の時代は終わり、最終段階である最後の審判に向かって進んでいる可能性が高いのではないかと思う。

そして、人類史(新約の時代)の終焉、新天新地の樹立、主イエスキリストの再臨second comingが続く。

その間、人類はどのような経過を辿るのだろうか。

いずれにせよ、この世がどうなろうと、何が起ころうと、われわれクリスチャンは粛々と聖化の道程を歩み、自らの救いを達成する以外になすべきことはない。

 

 

 

 

 


#43 救いの達成 R.C. Sproul: What Is the Gospel? NO.4

2023年11月13日 | 救いの達成

R.C. Sproul: What Is the Gospel?

33分21秒から最後まで。

◇◇

つまり、福音伝道にとって重要なことは、イエスキリストの贖いの死と復活の命の客観的利益を、如何にして自分のために享受するかにある。

新約聖書は、イエスキリストの恩恵を受け取るのが福音であると教える。

為し得る行ないに依らずに、イエスの完璧な恩恵を受け取る。

律法の行ないによって、肉は義とされないからだ。

17節でパウロが言う福音とは、「福音には、信仰から信仰へと神の義が啓示されている。」

ルターはオーガスティンから受け取った古代の資料を熟読しながら、ウィッテンベルクにおけるローマ書に関する講義を準備していた。

オーガスティンはこの聖句を注釈して、次のように言った。

パウロが義について語る時、その義とは、神ご自身の義のことではない。

パウロは未知の義(alien righteousness)と名付けた。

未知の義とは、義ではない者に無償で与えられる義のこと。

信仰によって、信仰のみによって受け取られる義。

人はそれを稼ぎ出すことはできない。

人はそれを受けるに値しない。

人はそれを働いて得ることはできない。

人ができることはそれを受け取ることのみ。

自分の行ないを混ぜることはぜず、信仰によって、信仰のみによって、キリストを信じることにより神の福音を受け取る。

それが極めて単純化された福音である。

キリスト教史の全世代において、それは変えられ、曲解され、改良されてきた。

中世には完全に失墜し、教会によって救いの全く異なる体系が作り出された。

16世紀の教会は、信仰のみによる義という福音を非難した。

ガラテア書を見てみましょう。

お読みします。

この箇所は、使徒パウロのペンから読み取ることができる極めて強力なことばで書かれている。

パウロの書簡を読む時、彼の心が牧師の心であることを見逃してはならない。

パウロは只々イエスキリストという子羊に対する憐れみを滲ませている。

また、民や教会の繁栄に対して言葉にし難い苦悩に堪え忍んでいる。

パウロは、自分が卑しい心、あるいはとげとげしい者ではないと言っているが、ここでは、あえてそうしている。

私が「使徒の驚き」と呼んでいることを告知することから、彼は語り始める。

ガラテア書1章6節、パウロは言います、「私は驚いている。」

何について驚いているのか。

そんなにすぐに、キリストの恵みにあってあなたがたを召して下さったお方から顔を背けているということ。

彼らは単に何かから顔を背けただけではなく、何か別のものへと顔を向けた。

彼らが顔を向けたものとは、異なる福音だった。

すぐにパウロは訂正する、「もうひとつ別の福音があるのではない。」

私パウロが言うこれらのことばから、人々はもう一つ別の福音があると思ってしまう。

福音を改良できると思ってしまう。

福音を編集できると思ってしまう。

福音を変えることができると思ってしまう。

そして、別の福音へと移ることができると思ってしまう。

しかし、他に福音は存在しない。

福音は一つしかない、神の福音ただひとつ。

あなたがたを惑わし、キリストの福音を曲解させる連中がいる。

パウロはかなりヒートアップする。

「もし私たちあるいは天からのみ使いが、私たちが宣べ伝えた福音ではなく、何か他のものを宣べ伝えるのなら、その者はanathemaされよ。

これ以上強いギリシャ語はない。

その者を地獄に突き落とせ(damn)、という意。

以前に使徒たちから聞いて受け入れた福音ではなく、何か他の福音を宣べ伝える者には、神の呪いが下れ。

たとえそれが天のみ使いであっても。

もしも栄光の光と燦然と輝く衣を帯びるみ使いが、日曜の朝あなたの教会に入り込んで、新たに改良された福音をあなたがたに授けるなら、そのみ使いをエーテルパンツの席から追い払い、神の呪いを頭にかぶせ、その場から叩き出せ。

これがパウロの言い分だ。

くり返し強調して、パウロは9節で次のように繰り返す。

前にも言ったように、そして今一度言います、「あなたがたがすでに受け入れた福音以外のものを宣べ伝えている者がいるなら、その者は呪われよ。」

数年前、福音の性質に関する熱い討論に関わったことがある。

LigonierやJohn MacArthurも参画した。
 
ジョンは私とともに、不評な側に立った。

激しい熱気に包まれて、私は圧倒され友を数人失った。

ある日の朝、一人で教会に行き、席に着いた。

ガラテア書1章にあるこれらのことをもう一度読み返す必要があった。

そして、以前に読んだことのあるこの箇所すべて(別の福音に関するパウロの警告)を読み返した。

これまで、9節と次の10節の間に直接の関連性を見出すことはなかった。

再度この箇所を読み返すまで、私はこの箇所を実存主義的に、また経験主義的に
読み取ったことはなかった。

パウロは言います、「私は人を説き伏せようとしているのか、それとも神を(説き伏せようとしているの)か。人を喜ばせようとしているのか。」

人々がキリストの福音を妥協する、ないしは福音を交渉する第1の理由は、人を喜ばせるためだ。

パウロは「私は人を喜ばせようとしているのか」と問いかける。

さあ、私もそんな問題を抱えている。

私は人を喜ばせたい。

私を好きになって欲しい。

この場にいる皆さんに呪われて欲しくない。

パウロは言います、「もし私が今もって人を喜ばせようとしているなら、私はイエスキリストの僕ではない。」

災いあるかな、福音を交渉する者よ。

呪われよ、福音を弄ぶ者よ。

良き知らせを悪い知らせに変えてはならない。

これは神の福音。

私たちにそれを改ざんする資格はない。

(祈り)

父よ。

あなたの良い知らせに感謝します。

私たちが改善できるはずもありません。

主よ。

福音は滅びる者には恥辱であるがゆえに、人は福音に抵抗するがゆえに、福音をより受け入れやすく、心地よく、より簡単にする傾向にあります。

そして、砂糖をまぶそうとします。

あなたが福音の中に与えて下さった御力に対する確信を欠いていることをお許しください。

父よ。

私たちはこの福音によって救われました。

この福音ゆえに、行ないによってではなく、信仰によって生きております。

この福音を介してイエスの義のそしりを受けております。

父よ。

失われ、破壊された世のために、十二分にこの福音を伝えていくことができるように、勇気と情熱とを与えて下さい。

イエスの御名によって、アーメン。