みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #9

2015年06月25日 | 聖書研究・信仰
Seek anything you will in the heavenly place(s) where Christ stands
on the right hand of God.






Adam’s Choice The Reason For The Cross, #1

2015年06月25日 | 聖書研究・信仰
アダムは善悪の知識の木を選んだ。

つまり、非依存の土台を選択した。

そうすることで、アダムは「十分に成長した」男となった。

彼は知識を制御できるようになった。

彼は自分で即断できるようになった。

彼は続けるも止めるもできるようになった。

それ以来、彼は賢くなった(創世記3:6)。

しかし、その結果は命よりも死。

アダムの選択は、サタンとの共犯という罪をはらんでいた。

それゆえ、アダムは神の判断を仰ぐことができなくなった。

こうして、命の木へのアクセスさえ彼には禁じざるを得なくなった。





The Choice That Confronted Adam, #4

2015年06月24日 | 聖書研究・信仰
これがアダムが選びことができたもうひとつに生き方だった。

御霊の道であり、従順の道を選ぶ生き方だ。

アダムは神の子になることができた。

自分の命のために神に依存する生き方ができた。

あるいは、自然のコースを取って、最後の仕上げを自分に任せる生き方ができた。

自己依存的存在となり、神から離れて判断し行動する生き方。

人類史は、アダムが下した選択の結果である。








The Choice That Confronted Adam, #3

2015年06月24日 | 聖書研究・信仰
もしもアダムが命の木からその実を取るならば、彼は神の命の共有人となるだろう。

そして、神から出た命を持っているという点で、神の息子となるであろう。

そこで、あなたはアダムと一体であるが故に神の命を持つであろう。

神の命を持つ新しい人。

その命のために絶えず神に依存して生きる新人類。

他方、もしもアダムが善悪の知識の木の実を食べるなら、彼は、神から離れて、自然の流れに沿った自分の人間性を発達させるであろう。

自己完結的存在として達成に至ると、自分の中に非依存的判断能力を持つであろうが、神由来の命はない。





The Choice That Confronted Adam, #2

2015年06月23日 | 聖書研究・信仰
さて、善悪の知識は、アダムには禁止されていたが、それ自体悪いものではない。

善悪の知識がなければ、アダムは独力で倫理的諸問題を解決できずにいたのではないか。

しかし、善悪の判断はアダムではなく神にある。

そして、何か問題にぶつかった時にアダムが取るべき道は、それを主である神に任せることだ。

かくして、すべての面で神に依存するところに命があるのだ。

この2つの木には2つの深い原則がある。

その2つの木は2つの命の平面を代表する。

「命の木」は神ご自身。

つまり、神が命。

神は最も気高い命の姿。

実(み)とは、何を意味するのか。

それは我らの主イエスキリスト。

その木を食べることはできないが、その実は食べることができる。

だれひとりとして神を神として受け入れることはできない。

しかし、主イエスを受け入れることはできる。

実は食べられる部分であり、受けることのできる部分だ。

敬意をもってこう言いたい。

主イエスは、我々が受け入れることのできる形となられた神である。

我々は、キリストという形において神を受け入れることができる。




The Choice That Confronted Adam, #1

2015年06月22日 | 聖書研究・信仰
神はエデンの園に数えきれない程の木を植えた。

エデンの園の中央、特別目立つ場所に、主は、2本の木命の木と善悪の知識の木を植えた。

アダムは、無垢な者として創造され、善悪の知識がなかった。

例えば、成人男性について考えてみよう。

30才の男。善悪の感覚がないし、その2つを識別する能力もない。

そんな男は発達障害があるとは言えないだろうか。

それがまさにアダムだった。

神はエデンの園の中にアダムを招き入れ、彼に言う。

「さあ、この園はいろんな木々といろんな果実で満ちている」

「どの木のどの実からでも、自由に取って食べてよい」

「ただし、園の中央に、善悪の知識の木と呼ばれる木がある」

「その木からは取って食べてはならない。食べたらその日に死ぬだろう」

「覚えておくがよい。近くにあるもう一本の木の名前は命ということを」

では、この2つの木の持つ意義とは一体何だろうか。

アダムは、いわば、モラル上中性として創造された。

罪があるわけでもなく、神のような聖があるわけでもない、しかし無垢なる者として。

アダムが自由に選択できるように、神はその2つの木をそこに置いた。

彼は命の木を選ぶこともできたし、善悪の知識の木を選ぶこともできた。





Coffee Break, #8

2015年06月21日 | コーヒーブレイク
The word of God is confirmed by the work of the Lord in us
and the miracles performed by Him.
Amen.





The Grain Of Wheat, #3

2015年06月21日 | 聖書研究・信仰
ヨハネの福音書1章と20章は、御父との関係について、実に良く書かれている。

ヨハネ1章に、イエスは神のただおひとりの息子であったと書かれている。

福音書の最後で、ヨハネは次のように書いている。

主イエスは死んで、復活した後、マグダラのマリアに言った。

「私の兄弟たちのところへ行き、彼らに言いなさい」

「私は、私の父、あなたがたの父、私の神、あなたがたの神のところに昇っていく」

(ヨハネ20:17)

この福音書において、主はしばしば「父」あるいは「お父さん」と言っていた。

いまや、復活した主は、「あなたがたの父」を付け加えた。

つまり、復活後、主は長子となり、最初の父の息子として話しているのだ。

主の死と復活によって、多くの兄弟たちが神の家族の中へともたらされた。

この聖句で、主は彼らを「私の兄弟たち」と呼んでいる。

ヘブル2:11
聖別する者と聖別される者たちは
一人から出て全部
この理由によって
この者たちを兄弟と呼ぶこと
彼は恥としない





The Grain Of Wheat, #2

2015年06月21日 | 聖書研究・信仰
神性という点では、主イエスは、言うまでもなく「神のただおひとりの息子」である。

しかし、ある意味合いにおいて、復活から永遠に至るまで、主イエスは神の長子である。

そして、主の命は、それ以来、多くの兄弟の中に見出される。

御霊から生まれた我々は、それ故「神の本性を共有する者」とされる。

第2ペテロ1:4
それを通して
大変偉大で貴重な約束を
私たちに与えてくれた
それらを通して
神の本性を共有する者たちになるように
免れたので
世の中にあって
滅びの欲望の中にあって

しかし、自分によるのでなく、只々神にのみ依存し、キリストにある存在において、我々は特色を発揮できる。

我々は養子の霊を受けた。

故に大いに叫ぶ。

嗚呼、我が父よ、と。

聖霊は我々の霊とともに証言する。

我々は神の子である、と。

ローマ8:5
肉に従う者たちは
肉の事々を思う
御霊に従う者たちは
御霊の事々を

ローマ8:16
御霊ご自身が
我々の霊とともに証しする
我々は神の子であると

主の受肉と十字架によって、神はこれを成し遂げた。

そこには、ご自身を十分に満足させるだけの父としての親心があった。

死を全うした長子としての我らの主の従順によって、父は多くの息子たちを救い続けている。






The Grain Of Wheat, #1

2015年06月21日 | 聖書研究・信仰
神のただおひとりの息子がどのようにして長子となったのか。

その方法は、ヨハネ12:24に書かれている。

ヨハネ12:24
アーメン、アーメン、あなたがたに言う
もし麦の一粒の種が地の中へ落ちて
死ななければ
その一つはそのまま
もし死ねば
多くの実を結ぶ

その種とは誰か。

主イエスだ。

宇宙全体において、神は一粒の「麦の種」を持った。

二粒目はなかった。

ご自身の一粒の麦の種を地の中に入れると、それは死んだ。

復活において、そのたったの一粒の種は最初の神の種となった。

その一粒の種から多くの種が芽を出した。