さて、善悪の知識は、アダムには禁止されていたが、それ自体悪いものではない。
善悪の知識がなければ、アダムは独力で倫理的諸問題を解決できずにいたのではないか。
しかし、善悪の判断はアダムではなく神にある。
そして、何か問題にぶつかった時にアダムが取るべき道は、それを主である神に任せることだ。
かくして、すべての面で神に依存するところに命があるのだ。
この2つの木には2つの深い原則がある。
その2つの木は2つの命の平面を代表する。
「命の木」は神ご自身。
つまり、神が命。
神は最も気高い命の姿。
実(み)とは、何を意味するのか。
それは我らの主イエスキリスト。
その木を食べることはできないが、その実は食べることができる。
だれひとりとして神を神として受け入れることはできない。
しかし、主イエスを受け入れることはできる。
実は食べられる部分であり、受けることのできる部分だ。
敬意をもってこう言いたい。
主イエスは、我々が受け入れることのできる形となられた神である。
我々は、キリストという形において神を受け入れることができる。