みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Presenting Ourselves to God, #4

2015年06月04日 | 聖書研究・信仰
私が主とともに十字架に付けられたと真に知る時、私は死んだと深く悟るようになる。

ローマ6:6
我々は知った
我々の古い人が主とともに十字架に付けられた
罪の体が廃棄されるように
二度と我々が罪に仕えることがないように

ローマ6:11
したがって、あなたがたもそのように思っている
罪に死んでいる
キリストイエスにあって神に生きている

私がキリストとともに死者から復活したことを知る時、同様に、私は「キリストにあって神に生きている」ことを悟る。

ローマ6:9
我々は知っている
キリストが死人の中からよみがえったということ
死が彼を決して支配しないということ

ローマ6:11
したがって、あなたがたもそのように思っている
罪に死んでいる
キリストイエスにあって神に生きている

主の十字架の死と復活の側面は、信仰によって受け入れられているはずだ。

この時点に達すると、神に自分自身を与えることが連続して起こる。

復活において、キリストは私の命の源泉である、否、私の命そのものだ。

私は主にすべてを明け渡さざるを得ない。

すべては主のもの、私のものではない。

しかし、死を通過しなければ、私は何も献げることができないし、神が受け取るべきものもない。

神は十字架に対して旧創造に属するものすべてを咎めた。

死は神に献げることができないものをすべて切り落とした。

復活のみが献身を可能とする。

神に私自身を差し出すとはどういうことか。

私の命の全体が主に属しているということを私が十分承知しているということを意味する。