"四季折々 この一枚″

ブログのタイトルを上記に変更しています。アドレスは同じです。
右端にカレンダーが出ればご覧いただけます。

「戊辰戦争」発端の地を見る(4)-淀

2013年12月12日 10時41分32秒 | 紀行

錦旗を掲げた新政府軍に対して、幕府歩兵隊や会津藩兵、それに新選組ら
旧幕府軍は、数こそ優勢でしたが砲火に劣り、
京都への前進は阻まれます。

4日には、鳥羽方面で一時、盛り返したとは言うものの指揮官らの
相次ぐ戦死などで退却、
淀から南で態勢を立て直そうとします。

上の写真は、京都方向から南方向を撮影した京阪電車「淀駅」付近です。

京都市伏見区納所(のうそ)の
鳥羽街道沿いに、「妙教寺(みょうきょうじ)」というお寺があります。

お寺の境内は、かって、淀君(茶々)が鶴松君を生んだという、
「淀古城」の本丸があったところと言われ、この付近でも
両軍の激戦が展開します。

妙教寺の本堂に、東軍の大砲の弾痕が残っています。

本堂の西側の板壁を突き抜けた砲弾は、
本堂を横切り、反対側の直径、約35cmの柱を貫通しました。

砲弾の飛び込んだ箇所には、
「戊辰ノ役(慶応四年 一八六八)東軍砲弾飛込口」の
表示が読み取れます。

柱にも「砲弾貫通柱」と書いた板が掲げられていました。

飛び込み口には、ガラスがはめられ、風雨を防いでいました。

 

淀駅近くには徳川時代になって建てられた淀城の跡があります。
今は、石垣と森が残るだけで公園になっています。

旧幕府軍は、5日、現職の老中でもあった稲葉正邦のこの淀城に入り、
戦況を立て直そうとしますが、藩主が江戸に滞在し、留守の淀藩は
城門を閉じて旧幕府軍の入城を拒否します。

このため、旧幕府軍はさらに南の男山、橋本方面へ退却します。

 現在の京都競馬場の駐車場入口脇に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑と
慰霊碑がありました。

 慰霊碑には
「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争でもあり 
いづれもが正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己等の誠を尽くした
 然るに流れ行く一瞬の時差により或いは官軍となり 或いは幕軍となって士道に
殉じたので有ります ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に
斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂以って瞑すべし
                                            中村勝五郎
昭和四十五年 奉」
の碑文が読み取れました。

鳥羽・伏見から淀へかけて、たくさんのお寺があります。

お寺には戦死者を悼む埋骨碑や
戦跡を伝える石碑が多く建っていました。


1月6日、旧幕府軍は石清水八幡宮のある男山の東西に分かれて
布陣します。

戦況は、ここでは旧幕府軍に有利に見られていましたが、
西の大山崎を守備していた津藩が、朝廷の命に従い、
旧幕府軍へ砲撃を加えました。

おもいもかけない西側からの砲撃に、旧幕府軍は総崩れとなって
淀川を下って大阪へと逃れます。

この写真は、公園になった「淀城跡」から南方向を見たところです。

 

徳川慶喜は、1月6日夜、大阪城から、ひそかに大阪湾にあった幕府の軍艦
「開陽丸」へ脱出、側近とともに江戸へ逃れます。

同年4月、江戸城が無血開城。

8月には、明治天皇が即位、9月に「明治」と改元されました。

そのとき、「慶応4年を明治となす」と詔書にあることから
この年の1月1日からを「明治」と定めました。

翌、明治2年5月には五稜郭の戦いもおわり、「戊辰戦争」は終結。

日本の新しい時代が始まりました。

 

(鳥羽周辺は10月28日に、伏見周辺は11月16日に、
                    淀  周辺は10月12日に、撮影しました)

                                (「戊辰戦争」発端の地を見る  おわり)

 

     (ブログ「春夏秋冬 75」も更新しています) 


最新の画像もっと見る