活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅の心構え 2

2016年03月21日 | 坐禅

材木を切断する 「あの音」 は、良いものでしょうか、悪いものでしょうか。

私たち衆生は 「あの音」 を良いとか悪いとか、何か批評出来るのでしょうか。

出来ないと思います。

 

「あの音」 はどうしようもないのです。

それは、「標準」 がないからです。

禅語で 「無那・無奈(むな)」 といいます。

即ち、「いかんともすることなし」 と読みます。

 

しかし、その 「標準」 がなかったらどうでしょう。

色々なことがあったとしても、一つだって問題にはならないのです。

 

ですから、「坐禅の心構え」 に、

どんなことが、どのようにあっても、

「在る物が在る、無い物が無い」、

内からも外からも、全部そういう様な動きのままにしておくと

自分の 「本性」 としての、この 「心の真相」 に徹することが出来ます。

 

これが 「坐禅の心構え」 です。

「真実(今の事実)」 でないものは、一つもないのです。

 

 


坐禅の心構え 1

2016年03月20日 | 坐禅

今この記事を執筆中に近くの工場より材木を切断する音が聞こえてきます。

聞こえたと認識した時点で「今の事実」ではなくなっています。

「今の事実」 は 「体感(思考)」 することは出来ません。


「あの音」 は「あの音」として、私たち衆生がどんなふうにしようと、在る訳です。

それを、考え方で取り扱って始末がつかずにいるのが人間(にんげん)の姿なのです。

 

修行と言うから難しいなぁという感じがするものなのですが、そうではありません。

他の事はいいのです。 「心」 だけを問題にしてくれたら一番いいのです。

 

「坐禅の時の心の持ち方」 というものは、何がどういうふうにあってもいいのです。

その人その人の在り方で、何がどのようにあっても構わないのです。

 

どうしてかというと、「妄想」 といい、「煩悩」 という言葉がありますが、

ものの一番最初は、「妄想」 も 「煩悩」 も起きるものではないのです。

無いものなのです。

私たち衆生は、それがみんな分からないのです。

 


先祖供養

2016年03月19日 | 仏教

「先祖」 というものがあって、「此の物(人)」 が存在しているという事が自分で

感じられていれば、それに対する恩に報いるという事は 「此の物(人)」 の責任です。

 

「先祖供養」 は、しっかりやるべきなのです。

やれば自分で気が済むし、やらないとやはり気がかりなものです。

 

「供養」 する事自体が、向こうも養うけれども、自分もそれで養われるのです。

「近親の者」 であれば、必ず 「身内」 は良くあって欲しいと願うものです。

自分に対しても、先祖に対しても、そういう願いはあるものです。

 

その願いを適えるところに 「供養」 という事があるのです。

線香一本立てるのも 「供養」 なのです。

それはどういうことかというと、「供養」 は 「供え養う」 とあるように、

その線香一本立てた香りそのものに感応 (かんのう) する、ということがあるのです。

 

良い香りの線香だと、良い香りによって気持ちが和やかになるという事があるのです。

それに感応するという事があるのです。

 

自分が感応すると同じように、すべてのものが感応するのです。

死んだら感応しないと人は考えがちですが、ところがそうではないのです。

 

例えば、「この机」 のようなものでも、皆が受けていると同じように感応しているのです。

「この机」 は、私たち衆生に 「示す(知らせる)」 ことが出来ないだけなのです。

 

人間(にんげん) というのは、「此の机」 に響いているのと同じような響きを、

「此の物(人)」 が感じとって自由に思いのままに扱う力があるのです。

 

「この机」 には、それがないだけなのです。 同じなのです。

ですから、「供養」 をすると必ず「縁」が通じるのです。

 

心掛けて、出来るだけ、線香にしても花にしても、ちゃんとしていこうという

気持ちそのものによって、自分自身も養われるのです。

 

そして 「先祖」 も感応するのです。

それを、「感応道交(かんのう どうこう)」 といいます。

 


事実のままに 2

2016年03月18日 | 

「波そのもの」 に成れば、波それ自体は自分が動いているということには、

自分自身は気が付きません。

 

難しいことではありますが、自分が波に成ってみる必要があるのです。

波に成れば、彼岸(彼の岸)というようなものはありません。

ですから、彼岸ということを取り違えると大変な間違いになるのです。

 

「波」 に成って下さい。

不安のままの状態に。 焦りのままの状態に。

落ち着きのないままの状態に。

 

自分がいかにそういうものに成り切れるか、ということです。

それが、「そのものの事実」 ということです。

 

決して、自分自身の心を費やして、「波」 を抑えようと思ってはいけません。

そこに多少の時間というようなものが必要ではありますが、

そうでなければ、「絶対の安心(あんじん)」 というものは、ありません。

 

私たち衆生の「今の状態」 というのは、みんな 「自分の事実の上」 に

立っているではありませんか。

 

その事実を、事実のままに、静かに自分のものにする、という

そういう修行が 「禅の修行」 なのです。


事実のままに 1

2016年03月17日 | 

日本には春と秋のお彼岸と言うものがあります。

こちらの岸(此岸/ しがん) と、相手側に岸があり、それを 「彼岸」 と言っています。

 

ですから、彼岸に到るには修行が要ります。

その修行はどうしたらいいのか。

 

今のように私たち衆生は 「坐禅(禅)」 を修行するわけです。

 

 

彼の岸(彼岸) と、こちら側の岸(此岸) の間が非常に波立っているとします。

ちょうど、私たち衆生の感情と同じことです。

波立っている時、波の間には岸はありません。

「波」 という事実だけがあるのです。

 

私たち衆生が、不安とか、焦りとか、落ち着かないとか、そういう事実が

「波」 になってあるということです。

彼の岸(彼岸)を求めるから、ますます悩みが深くなるのです。

 

そうすると、どこに目的をおいて(目的を持って) 修行をしたらいいのか

という事が問題になってくるのです。

 

そこで、指導者は 「波に成りなさい」 というのです。

「波そのもの(いわゆる、不安とか、焦りとか、落ち着かないということ) に成って下さい」

と、言うのです。


「本当のあなた」とは

2016年03月16日 | 法理

今、「本当のあなた」 とは、と言うと、それが問題になって

考えれば考えるほど結局分からなくなってしまいます。

 

ほとんどの人が皆それで終わりだと思います。

当たり前です。

「本当のあなた」 というものは、考え方で生まれて来たのではないからです。

 

それを考え方で 「処理(解決)」 しようとするから、「処理(解決)」 にはならないのです。

考える、考えないに関係なく 「今のあなたは、今のあなた」 なのです。

 

それなのに、どうしても、「今のあなた」 を皆自分で信じられないのです。

「今の自分を、今の自分」 として、本当の永遠の確かな自分だということを

信じられないのです。

 

おかしいでしょう。

すべてのものの、基本に成っている 「今の自分(此の物自体)」 を誰も信じないで

その上から色々なことを問題にするということは、土台が始めから崩れているのです。

ですから、間違えるのも、分からないのも、当たり前なのです。

 


基本(目と物の関係)4

2016年03月15日 | 法理

思いにも、自分で起こしている思いと、必然的に湧き起ってくる思いとがあるのです。

そこのところは分けにくいので、ひとまず思いをそのまんまにしておく必要性があるのです。

 

自分で思ったものでないものは何ともないはずです。

厳密に自分を看てみると、苦悩や心配の種になるのは、自分で思ったものだけです。

自分の中で思っていた事を看てみると、それを自分で取り上げてから苦しむのです。

自分で取り上げるまでは、その事が思いであっても、何も苦しんでいないのです。


例えば、“こうしたら相手がどう思うだろうか” という事も、それは自分の思いだけであり、

相手はまだ何もやっているわけではないはずです。

ですから、それは全く自分の動きだけなのです。

相手がやっているように見えたり、聞こえたりしていますが、全部自分の動きなのです。

 

苦悩や心配している時を看ると、必ず自分で思いをつかまえて、行っている時です。

それ以外の時は苦悩や心配はしていないのです。

 


基本(目と物の関係)3

2016年03月14日 | 法理

私たち衆生は、苦しんでいる時に、解決方法はどこか別の所にあると

思っています。

解決方法は別な所にはないのです。 考え方を止めたら楽になるのです。

 

現実の日常生活の中には、時には考えなければならないこともあると思います。

しかし、それも、こういう風に考えたらこうなる、そういう風に考えたらそうなる

と、きちんとしているものです。

どんな風に考えてもそのまんまで何ともないものです。

 

考えているだけだったら、本当は人を苦しめないのです。

でも、考え方は整理するのが難しいのです。

 

例えば 「果物」 を見た時、考えが一緒について出てきます。

何色だろう、甘いか酸っぱいかとか、どちらが大きいとか、高いか安いか、

産地はどこだろうかと、色々出てきます。

 

自分で考えようと思ったわけではないのに出て来るのです。

それが、ものすごく速いから思いを相手にしていると分かりにくいのです。

ですから、「純粋な働きだけの所」 で見ていく必要があるのです。

 

「この果物」 だって本当は不味いものでも、美味しいものでもないのです。

実際食べてみた、そのものの味がするだけです。

他にもう一つ別の味がある訳ではないのに、人間(にんげん)は、

美味しいとか、不味いと判断するのです。

 

一体何を基準に判断しているかというと、今までの経験をもとにしているのです。

それでは 「美味い、不味い」 は有るのかというと無いのです。

そのくらい一つの事を 「縁」 にして色々な思いが出て来るのです。


基本(目と物の関係)2

2016年03月13日 | 法理

ここに 「果物」 があるとします。

この 「果物」 は目に何か注意を向けさせているでしょうか。

 

私の意思に関係なく 「果物」 は見えます。

「果物」 を見たら 「果物」 が見えるように私がしたわけではないのに

「果物」が見えます。

何故、こうなるのか考えてみてほしいのです。

 

私が何かしたわけではないのに、「目」 は自由自在に何でも見られるように

出来ているのです。

そんな素晴らしい働きを持っているのです。

 

何も前の事に縛られていない、先に見たものが何も残らず見えるようになっています。

実に「不思議」です。

頭(考え方)では、見たものを残してしまうのに、その点 「目」 は残さないのです。

 

いつも自分の目の向かっているところのものがきちんとあります。

もし、目の前の物が、その通りに見えなかったら大変な事です。

 

頭(考え方)では、物を見て比べますが、目は比べないということも素晴らしいことです。

目は二重生活をしていないのです。

比べるという二重生活をしたら、どちらが本当だろうか、どちらがいいのだろうかと、

必ず頭の中で考えなければなりません。

 

「目」 はいつも、「それだけ(物だけ)」 に向かっているのです。

 

 

 


基本(目と物の関係)1

2016年03月12日 | 法理

「目と物の関係」 とは、本当は、物があって目があれば

それは映って見えるだけのはずです。

それも、見た時にその事が見えて、そこから目を離したら今まで見ていた物が

見えなくなるような働きをしている 「事実」 です。

 

それは、何でもない事のようですが凄い事なのだという事に気が付いて欲しいのです。

これが考えだと、何が気に入らない事があれば、引っ掛かって残っているために

心が悩むのです。

 

「目の働き」 というものは、そういうことを見事にクリアーしています。

嫌なものでも、見たくないものでも、向かえば確かに見えます。

でも、そこから離れた途端に厭だ、嫌いだと思う様なものさえも

無くそうとしなくても、どこにも無い、目はそういう働きをしています。

 

これは一体なんだろうという事です。

問題の起こる種さえ無いのです。

 

しかし、頭の方で考えると、一回見たもの、朝あった事などがいつまでも

残っているのです。

それがもう一方の生活です。

 

ですから、「目」 に学んで頂くと、それが嘘であるという事が証明されるはずです。

「目」 という一つの例を挙げましたが、この体でやっている事を見てみると

考え違いをしているのがよく分かっていただけると思います。

 

自分の生活をこの体の上で見てみる必要があるのです。

目でも耳でも鼻でも口でも、働いてもらっている事は、

人間(にんげん) の考え方では無い、体その物の生活(働き) です。

 

目が物を見て怒った事がありません。

耳が物音を聞いて腹を立てたことはないのです。

口は愚痴をこぼしたことはありません。

 

皆、考え方 (思惑、各人の我見) なのです。

考え方 (思惑、各人の我見) が色々問題を起こしているのです。

そこが「目と物の関係」、即ち、物事を学ぶ基本だと思うのです。