活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

物心が付く時点 1

2016年03月04日 | 法理

おシャカ様のおしえでは、「物心が付く時点」、「知恵が付く時点」 が

「迷いの元」 なのです。

 

しかし、人類のすべてがこの 「物心が付く時点」 から以外には、

人間(にんげん)生活というものは、あり得ないのです。

 

そういうところで、物心が付いたと言いますが、一体どこで付いたのでしょうか。

赤ん坊には自覚がないはずです。

私達衆生は自覚がないまま大きくなって、「不自覚」 なその仲間ばかりの存在なのです。

 

ですから、「人間の心 」に対して、どういうふうに、どこから、どのように

手を付けたらいいのか、手の付けどころを誰も知らなかったのです。

 

人類始まってこのかた、そのような状態で来たのですが、

おシャカ様が 「迷いの始まり」 を明らかにされたのです。

 

この 「物心が付いた時点」 が 「初めて一念心(認識)が起きた時」 です。

 

「その念が起きた」、「認識が起きた」、「心が初めて動いた」

その時点から、それを 「自分(自己)」 であり、「自分(自己)のもの」 であると

思い込むのが 「迷いの始まり」 なのです。

 

そういうようなところで 「迷い」 を起こしたものですから、その迷いから

離れるにはそうした 「心」 を使うことをしないことなのです。

 

即ち、すべてを止めることです。

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という道具」 に任せるのです。

 

「仏法」 では、こういう扱いをしています。

赤ん坊のように 「物心付く以前の事実」 に徹するのです。