おシャカ様のおしえでは、「物心が付く時点」、「知恵が付く時点」 が
「迷いの元」 なのです。
しかし、人類のすべてがこの 「物心が付く時点」 から以外には、
人間(にんげん)生活というものは、あり得ないのです。
そういうところで、物心が付いたと言いますが、一体どこで付いたのでしょうか。
赤ん坊には自覚がないはずです。
私達衆生は自覚がないまま大きくなって、「不自覚」 なその仲間ばかりの存在なのです。
ですから、「人間の心 」に対して、どういうふうに、どこから、どのように
手を付けたらいいのか、手の付けどころを誰も知らなかったのです。
人類始まってこのかた、そのような状態で来たのですが、
おシャカ様が 「迷いの始まり」 を明らかにされたのです。
この 「物心が付いた時点」 が 「初めて一念心(認識)が起きた時」 です。
「その念が起きた」、「認識が起きた」、「心が初めて動いた」
その時点から、それを 「自分(自己)」 であり、「自分(自己)のもの」 であると
思い込むのが 「迷いの始まり」 なのです。
そういうようなところで 「迷い」 を起こしたものですから、その迷いから
離れるにはそうした 「心」 を使うことをしないことなのです。
即ち、すべてを止めることです。
「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という道具」 に任せるのです。
「仏法」 では、こういう扱いをしています。
赤ん坊のように 「物心付く以前の事実」 に徹するのです。