今この記事を執筆中に近くの工場より材木を切断する音が聞こえてきます。
聞こえたと認識した時点で「今の事実」ではなくなっています。「今の事実」 は 「体感(思考)」 することは出来ません。
「あの音」 は「あの音」として、私たち衆生がどんなふうにしようと、在る訳です。
それを、考え方で取り扱って始末がつかずにいるのが人間(にんげん)の姿なのです。
修行と言うから難しいなぁという感じがするものなのですが、そうではありません。
他の事はいいのです。 「心」 だけを問題にしてくれたら一番いいのです。
「坐禅の時の心の持ち方」 というものは、何がどういうふうにあってもいいのです。
その人その人の在り方で、何がどのようにあっても構わないのです。
どうしてかというと、「妄想」 といい、「煩悩」 という言葉がありますが、
ものの一番最初は、「妄想」 も 「煩悩」 も起きるものではないのです。
無いものなのです。
私たち衆生は、それがみんな分からないのです。