活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

法としての根元(本)3

2016年03月29日 | 法理

更に、道元禅師は

「将に見んとすれば、白雲万里」

と、今までの 「見解(けんげ)」 を持って、そういう事を見ようといっても及ばないことですよ

と、はっきりお示しになって居られます。

 

「此の物」 は、音がすれば用があっても、なくても 「自然(じねん)」 に耳に入るように

出来ているのです。

 

その 「活動体」 を見ようと言っても、どういうわけでそうなるのかと尋ねても

分からないのです。

分からないのですけれども、必ずそうあるのです。

知らずに行われている様子なのです。

 

道元禅師は、「法としての根元(本)」 という事について

「其の法の為体(ていたらく) 模索(もさく)することを得ず、求覓(ぐみゃく)することを得ず」

と、示されています。

 

探ろうと思っても、尋ねようと思っても、どこにもその種はありません。

「活動体」 は何もないところから活動しているのです。

 

今でもこうして机に向かってペンを動かしていると、何もないところから

「声」 が聞こえます。

どこかにあって始まったのではないのです。

 

「声」 は人間(にんげん) が後から考えて分かった事です。

後から、人間がそういう事に認定したのです。


人間の 「見解(けんげ)」 で見ようと思っても距離があるのです。

それを 「見んとすれば、白雲万里」 と言うのです。

距離がありすぎて分からないと、道元禅師はおっしゃっているのです。

 

「此の物」 は般若心経にある通りに

「無眼耳鼻舌身意」

なのです。

 

おシャカ様、在世の時に自分で自分の機能としてのもの(六根)を

問題にした人は、おシャカ様以外には居なかったのです。

多くの人は、「此の物」 を 「私のもの」、という考えを中心にして、

それの便利のいい事だけを考えてきただけなのです。