「坐禅」 を行ずる時は、自分を中心にして 「坐禅」 を行じてはならないものです。
それを本当に止めて、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 を解放します。
「六根の作用」 がどうあろうとも相手にせず、邪魔にせずして、
一々の、その時、その時の作用のままに手を付けないことです。
“構わない” ことです。
その現じたり、滅したりする、それ自体が私たち衆生の手付かずの真相なのです。
「応無所住而生其心 (おう むしょじゅう にしょう ごしん)」
〈 まさに住する所無くして 而も 其の心を生ず 〉
そうすれば、なんにもない所から生じながら、直にそれから離れて(脱落して)、
「その事実」 が自分に完全に具わっていることが手に入るのです。
「身心脱落、脱落身心」 です。