活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

自分自身を看る

2016年03月10日 | 法理

自分自身の働きの中には、大きく分ければ、思いの動きと機能の働きというのがあります。

いわゆる精神界と肉体の働きです。

 

精神界の方がやっぱり厄介なのです。

機能の働きというのは、そんなに難しくないのです。

否応なしにその時で終わってしまうからです。

どうしても、その時限りで終わらざるを得ない様に出来ているのです。

 

けれども、この六根(眼・耳・鼻・舌・身・意) の 「心(意)」 の働きの方は

「不思議」 にその時だけで終わっているはずなのに尾を引くのです。

 

そのくらいで済めばいいのですが、思いがだんだん膨らんで自分の中に

それが 「実在」 しているように思うのです。

 

「縁」 に触れて思いが出てきたと気が付いた時、やることは一つだけです。

「思いを止める」 だけ。


日常生活は次から次へとやることがあるわけですから、その思いにしがみついていたら

置いて行かれてしまいます。

「事実」 とのギャップがどんどん出来てしまいます。

私たち衆生はそれで苦労をしているのです。

 

例えば、サッカーをしていて失敗したとしても、球はどんどん動いていくわけです。

その時どうしたらいいか、といっても何も条件はありません。

ただ、球にどれだけついていくかということだけです。

 

プロの選手は、失敗しようが何しようが、その事は放っておいて

今動いている球だけについての練習をするのです。

 

この体も朝から晩までスポーツをしているようなものです。

活動している、ということは、言ってみればスポーツみたいなものです。