「先祖」 というものがあって、「此の物(人)」 が存在しているという事が自分で
感じられていれば、それに対する恩に報いるという事は 「此の物(人)」 の責任です。
「先祖供養」 は、しっかりやるべきなのです。
やれば自分で気が済むし、やらないとやはり気がかりなものです。
「供養」 する事自体が、向こうも養うけれども、自分もそれで養われるのです。
「近親の者」 であれば、必ず 「身内」 は良くあって欲しいと願うものです。
自分に対しても、先祖に対しても、そういう願いはあるものです。
その願いを適えるところに 「供養」 という事があるのです。
線香一本立てるのも 「供養」 なのです。
それはどういうことかというと、「供養」 は 「供え養う」 とあるように、
その線香一本立てた香りそのものに感応 (かんのう) する、ということがあるのです。
良い香りの線香だと、良い香りによって気持ちが和やかになるという事があるのです。
それに感応するという事があるのです。
自分が感応すると同じように、すべてのものが感応するのです。
死んだら感応しないと人は考えがちですが、ところがそうではないのです。
例えば、「この机」 のようなものでも、皆が受けていると同じように感応しているのです。
「この机」 は、私たち衆生に 「示す(知らせる)」 ことが出来ないだけなのです。
人間(にんげん) というのは、「此の机」 に響いているのと同じような響きを、
「此の物(人)」 が感じとって自由に思いのままに扱う力があるのです。
「この机」 には、それがないだけなのです。 同じなのです。
ですから、「供養」 をすると必ず「縁」が通じるのです。
心掛けて、出来るだけ、線香にしても花にしても、ちゃんとしていこうという
気持ちそのものによって、自分自身も養われるのです。
そして 「先祖」 も感応するのです。
それを、「感応道交(かんのう どうこう)」 といいます。