本来の私たち衆生の状態というものは、悟ったからといって変わるものは
一つもないのです。
道元禅師は 「学道用心集」 の中で
「いわんや、行の招くところの者は証なり、自家(じけ)の宝蔵、外(ほか)より
来らず、証の使ふところの者は行なり」
「心地の蹤跡(しょうせき)、あに回転すべけんや」
と、はっきりお示しになって居られます。
ただ実物を見て、「ああそうなのだ」 と、自信が付くだけです。
その自信がついてみれば、今までの考え方で行っていたのが、考え方ではなくて
どうもしない、どうも思わないのに、「今こういう状態がある」、それだけで終わっている
のがはっきりするのです。
何故かというと、自分の 「見解(けんげ)」 「考え方」というものから、「きれいに離れた真相」 を
自分で見つけたからです。
自分たちの考え方で扱う道具ではなかったという事に気が付くのです。
その様子を道元禅師は、
「もし、証の眼を回らして、行の地を顧みれば一翳(いちえい)の眼の当たるなし」
とお示しになって居られます。
悟った時の自分の様子を顧みてみると、ものを見るという事でも、思いの上でも、
なんにも邪魔になるものはありませんという事を表現なさっているのです。