活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

無明 (むみょう)について 1

2015年08月09日 | 仏教

私達衆生は、いつからか “ものを二つに見る (相対的にものを見る)” 癖がついてしまいました。

これを「無明 (むみょう)」といっています。

道元禅師の場合「自分というものを認めてしまった」ために、それが「無明」となってしまったのです。


無明が隔てを作っているので、それがそれと【わからない】のです。

ですから「坐禅は坐禅なり」というのが分からないのです。


しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明」とすべきもの (塊) は何も【ない】のではないでしょうか。

それでは、何がいったい「無明」なのかという事になってきます。

ですから、「ものを二つに見る癖」「ものを隔てるその様子」を無明と覚えて下さい。

言い換えれば、それは「自我」の事です。


ですから大切な事は、自我を忘れて【認識する以前の状態に戻る】事です。

【煩悩や菩提が生じる以前の様子】が必ずあります。

そういうことを「祗(只)管 /しかん」 とか、「只」といっている訳です。