ものが見えた、今何か聞こえたという事は、既に【事実】というものは過ぎてしまって【自分の考えの中だけ】で見えた、聞こえたというものが残る訳です。
どこにもない自分を認めて有ると思っている。
その有ると思っている自分が意識を起こして、自分が見た、今自分が聞いたかのように妄想を起こしているのです。
私達衆生の修行 (今の事実に徹する) は、「本来の自己」に目醒める事です。
本来の自己というのは認めようのない、認めることの出来ない、際限のない、大きな自分という事です。
それに目醒める事、これは又、無我とか、無心とか、空とか、自己を忘じるとかいう言葉でも表現されています。
人も、一切のものも、いつでも同じ状態というものはありません。
いつでも移り変わっているという事 (無常) で、絶えず変化し続けているものには「自我」というような、これだというもの、中心となるものを認める事は出来ません。
どこにもない自分を認めて有ると思っている。
その有ると思っている自分が意識を起こして、自分が見た、今自分が聞いたかのように妄想を起こしているのです。
私達衆生の修行 (今の事実に徹する) は、「本来の自己」に目醒める事です。
本来の自己というのは認めようのない、認めることの出来ない、際限のない、大きな自分という事です。
それに目醒める事、これは又、無我とか、無心とか、空とか、自己を忘じるとかいう言葉でも表現されています。
人も、一切のものも、いつでも同じ状態というものはありません。
いつでも移り変わっているという事 (無常) で、絶えず変化し続けているものには「自我」というような、これだというもの、中心となるものを認める事は出来ません。