「坐る」 という言葉を聞くと、何が何でも足を曲げて、
形通りの坐ということにこだわる人がいます。
しかし、坐禅というのは行住坐臥 (ぎょうじゅう ざが)
だということです。
四六時中、すべてが坐禅になっていなければならないのです。
自分の今していること、考えていることが
全部坐禅になるように心掛けなければいけないのです。
禅宗で、「摂心 (せっしん)」 の 「摂」 という字は、
心を摂(おさ) める、整理するというように解釈されています。
しかし、本来の 「摂」 というのはあるがままに、ありのままに
という意味です。
散り散りバラバラになっているものを、
ある一つの形にはめることではありません。
「あるがままに、そのままに任せておく」
ということを 「摂 (おさ) める」 と、解釈して
いただかなければならない訳です。
摂心で 「坐に親しむ」 ということで、
自分と相手との距離 (隔て) をなくすことなのです。