活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅は坐禅なり 2

2015年08月10日 | 坐禅
道元禅師は、「本来本法性天然自性身 (ほんらい ほんぽっしょう てんねん じしょうしん)」、本来このままでよければ、何故祖師といわれる方々は修行なさったのだろう、ということに疑問を持たれて中国に渡り、「身心脱落 (しんじん だつらく)」をなさったということがあります。

この「身心脱落」というのは、【ものに成り切って自分を忘れる】という事です。

「坐禅に成り切って坐禅に成る」、それを「坐禅は坐禅なり」といっています。

別の言葉で言えば、「ただ」もなければ「坐禅もない」ありさまを、「坐禅は坐禅なり」と示しているのです。



「坐禅は坐禅なり」というのは、【身心脱落をなさった人】の御言葉です。

ですから、身心脱落をまだ経験していない人は「坐禅は坐禅なり」ということにはなりません。


「私が坐禅をしている」という【私】という介在があるということを知っていただかなければなりません。

「坐禅」というのは「坐禅」によって「坐禅」を完全に【忘れ尽くす】ために「坐禅」をするということです。


「坐禅は坐禅なり」、ごく単純に【その事だけ】で足りるように務めて頂きたいと思います。

これは “坐禅” だけの事ではありません。

仕事においても、日常生活においてもそうです。

そのものの為にそのものを行じている、その事でその事が終わっている、そこに「一切の意味付けや意義付けを行わない」事です。