道元禅師曰く、
「発心 (ほっしん) 正しからざれば、万行 (まんぎょう) 空しく施す」
と。
どういうことかと言いますと、道元禅師の御言葉を借りれば、正しい発心とは
「仏道をならふというは、自己をならふなり」
ということです。
その「自己をならふ」とは、
「無自性、無我 (どこにも自分というものを認めることが出来ないものである、自分というのは本来ないんだ、自己というものはないんだ)」
という、そのことを知ることです。
それに向かって、日日 (にちにち) の生活をする、それを正しい発心というのです。
だからそのためには、「自己を忘るるなり」ということなのです。
「見聞覚知 (けんもん かくち)」する今の自分、これを認めて、「これが自分だ」というふうに考える、それは大変な間違いなのです。
それを、「仏の教え、歴代の覚者の教えによって忘れなさい」と、いっているのです。
そういうふうに、自分で発心しないといけないのです。
「発心 (ほっしん) 正しからざれば、万行 (まんぎょう) 空しく施す」
と。
どういうことかと言いますと、道元禅師の御言葉を借りれば、正しい発心とは
「仏道をならふというは、自己をならふなり」
ということです。
その「自己をならふ」とは、
「無自性、無我 (どこにも自分というものを認めることが出来ないものである、自分というのは本来ないんだ、自己というものはないんだ)」
という、そのことを知ることです。
それに向かって、日日 (にちにち) の生活をする、それを正しい発心というのです。
だからそのためには、「自己を忘るるなり」ということなのです。
「見聞覚知 (けんもん かくち)」する今の自分、これを認めて、「これが自分だ」というふうに考える、それは大変な間違いなのです。
それを、「仏の教え、歴代の覚者の教えによって忘れなさい」と、いっているのです。
そういうふうに、自分で発心しないといけないのです。