「坐禅というのは、自己に参じることだ」
ということがはっきりしていないと、おシャカ様の説かれる “法” 、歴代の覚者の説かれる “坐禅” というのが、【病】になったり【薬】になったりするものです。
「自己に参じる」ということが、はっきりしている人には【坐禅が薬】になります。
ところが、おシャカ様の言葉や、歴代の覚者の言葉を参究している人には【坐禅が病】になります。
ですから、何時でも
「自分の参じるものは何か」
ということを、自分ではっきりと見つめていかなければなりません。
いつも自分が「空 (から)」になって、良いことも捨てていく、悪いことも捨てていく。
好きなことも嫌いなことも全部捨てていって、いつも「空 (から)」になって坐る。
そういうことが「自己に参じる」ということです。
ということがはっきりしていないと、おシャカ様の説かれる “法” 、歴代の覚者の説かれる “坐禅” というのが、【病】になったり【薬】になったりするものです。
「自己に参じる」ということが、はっきりしている人には【坐禅が薬】になります。
ところが、おシャカ様の言葉や、歴代の覚者の言葉を参究している人には【坐禅が病】になります。
ですから、何時でも
「自分の参じるものは何か」
ということを、自分ではっきりと見つめていかなければなりません。
いつも自分が「空 (から)」になって、良いことも捨てていく、悪いことも捨てていく。
好きなことも嫌いなことも全部捨てていって、いつも「空 (から)」になって坐る。
そういうことが「自己に参じる」ということです。