「自己をならうというは、自己をわするるなり」
という、道元禅師のお示しがあります。
「自己をならう」とは、自己に参じることです。
「自己をわするるなり」とは、「ものと自分との隔たりがなくなったこと」をいいます。
間違いやすいことです。
坐禅によって自己を【忘じようとするから】、自己が【忘じられない】のです。
ですから、【坐禅に成る】、それが自己を忘じることなのです。
坐禅というのは、「行住坐臥 (ぎょうじゅう ざが)」、つまり、日常のすべてのことなのです。
ですから、そのもの そのものに成る、それを「自己をわするるなり」と、こういっています。
自己を忘じたことを、「脱落」と言うのです。
という、道元禅師のお示しがあります。
「自己をならう」とは、自己に参じることです。
「自己をわするるなり」とは、「ものと自分との隔たりがなくなったこと」をいいます。
間違いやすいことです。
坐禅によって自己を【忘じようとするから】、自己が【忘じられない】のです。
ですから、【坐禅に成る】、それが自己を忘じることなのです。
坐禅というのは、「行住坐臥 (ぎょうじゅう ざが)」、つまり、日常のすべてのことなのです。
ですから、そのもの そのものに成る、それを「自己をわするるなり」と、こういっています。
自己を忘じたことを、「脱落」と言うのです。