「礼拝 (らいはい)」というのは、人を敬ったり、仏様に香を薫じて、三拝九拝することではありません。
礼拝の目的というのは【自分をなくす】ということです。
これを「五体投地 (ごたい とうち)」といいます。
「五体」とは、両手、両足、頭 のことです。
ですから、五体を地のなかに自分自身を埋め込んでしまうということです。
日日 (にちにち) が全部そうではないでしょうか。
全部が五体投地の生活なのです。
ですから、道元禅師は
「日日三時に礼拝し、恭敬 (くぎょう) して、更に患悩 (げんのう) の心を生ぜしむること莫れ」
と、言われて居ります。
礼拝をするときは、相手があるわけではありません。
自分があるわけでもありません。
【ただそのことが、そのこととして行われている】ということです。
礼拝の目的というのは【自分をなくす】ということです。
これを「五体投地 (ごたい とうち)」といいます。
「五体」とは、両手、両足、頭 のことです。
ですから、五体を地のなかに自分自身を埋め込んでしまうということです。
日日 (にちにち) が全部そうではないでしょうか。
全部が五体投地の生活なのです。
ですから、道元禅師は
「日日三時に礼拝し、恭敬 (くぎょう) して、更に患悩 (げんのう) の心を生ぜしむること莫れ」
と、言われて居ります。
礼拝をするときは、相手があるわけではありません。
自分があるわけでもありません。
【ただそのことが、そのこととして行われている】ということです。