活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

自己に参じる

2015年08月21日 | 
「坐禅というのは、自己に参じることだ」

ということがはっきりしていないと、おシャカ様の説かれる “法” 、歴代の覚者の説かれる “坐禅” というのが、【病】になったり【薬】になったりするものです。


「自己に参じる」ということが、はっきりしている人には【坐禅が薬】になります。

ところが、おシャカ様の言葉や、歴代の覚者の言葉を参究している人には【坐禅が病】になります。


ですから、何時でも

「自分の参じるものは何か」

ということを、自分ではっきりと見つめていかなければなりません。


いつも自分が「空 (から)」になって、良いことも捨てていく、悪いことも捨てていく。

好きなことも嫌いなことも全部捨てていって、いつも「空 (から)」になって坐る。

そういうことが「自己に参じる」ということです。



2015年08月20日 | 仏教
「仏教の言葉なり、あるいは色々な経典に書かれていることを知らなければ、とても解脱などということは出来ないだろう」

というように教えている方が居られるかもしれません。


しかし、おシャカ様は「星」を見られて身心を脱落されました。

石が竹に当たった「その音」を聞いて脱落された方も居られます。

ですから、仏教の言葉というようなことをご存じない人でも「正しい修行 (工夫)」をしていれば【縁】に当たって必ずそういう脱落があるということです。


おシャカ様は、御自身が非常に御苦労なさったので、あとから「法」を求める私達衆生の為に、色々【方便】をめぐらして、たくさんの説法をしておいて下さったのです。

「こういう道さえ間違いなく、一歩一歩確実に歩いて行きさえすれば、必ず到達しますよ」

ということです。


おシャカ様だけではありません。

歴代の覚者と言われる方々は、私達衆生にあまり苦労をかけないように、この道がわかるようにということで、色々方便をお示しになったのです。


しかし、私達衆生が【私が】というものを差し挟んで、読んだり聞いたり、坐ったりするものですから「縁」に突き当たったとしても、その事が自分のものにならないという、もどかしさがあるわけです。

精進

2015年08月19日 | 法理
頑張るという事と、結果というのは、【全く関係がありません】。

一所懸命で頑張るだけです。

そうすれば結果は待たずとも、求めなくても、必ずやってくるわけです。

不断の精進です。


「思い出さずに忘れずに」、唯 ( ただ ) 務めていただきさえすれば、それで十分なのです。

「今、初めて坐る」。いつでも「今が最初だ」ということです。


本当にこれは根気仕事です。

やめてしまっては、それで終わりです。

自ら【菩提の芽】を摘み取るようなものです。

「初心を忘れずに」。


「意義付け、意味付けのないのない坐禅をする」ということに務めていただきたいと思います。

空 (から)

2015年08月18日 | 法理
私達衆生は知識が豊富です。

十分それを使いきっておられますが、坐禅に関してはそれがものの役に立たないのです。

ですから、坐禅をして力をつけるのではなく、坐禅をして「そういう力を一度捨てきってしまう」という必要があるのです。


「捨てきる」とは、自分の過去の知識というものを、引き出しの中、あるいは棚の上に上げてしまって「空 (から) になって坐る」ということです。


自分が「空 (から)」になりさえすれば、かつて学んだ知識というものは、今度は大きく広く使えるのです。

ですから、自分というものがなくなれば、本当に大きく過去の知識が使えるということなのです。


一切我見を交えないようにして、黙ってその事を単純になって務めていくということです。


声聞根性 (しょうもん こんじょう)

2015年08月17日 | 法理
どんなに素晴らしいおシャカ様の御言葉であろうと、歴代の覚者の御言葉であろうと、そういう【知っている言葉】を先に立ててそれに沿っていこうとすることを「声聞根性 (しょうもん こんじょう)」といいます。

それをしていても、決して仏道の修行にはならないのです。

「発心 (ほっしん)」にならないということです。


『発心、修行、菩提、涅槃』 発心がなければ修行は出来ません。

修行が出来なければ菩提もないし、涅槃もないということです。


これは当然のことです。

何故なら【求めるところが違う】からです。


ものをよく知っている人は「自分はよくわかっているんだ」という自信を持つものです。

それは危険なのです。

自信というものは【持つべきものではない】のです。

そんなものは【持てない】のです。


「これでいいんだ、こうしていけば間違いないんだ」という、そういう自信、それ自体が【誤り】だということに気が付いて頂きたいと思います。

是非を管すること莫れ

2015年08月16日 | 語録
「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」という御言葉があります。

【ものをよく知っている人】 は、「善悪を思わず」といえば、良いこと悪いことというのは、“思ってはいけないんだ” と理解してしまいます。

又、「是非を管すること莫れ」といえば、他と “比較してはいけないんだ” という【考え】を先に立ててしまいます。


別の言葉で言えば、「法」を求めていく上には、“思ってはいけないんだ” “考えてはいけないんだ” というふうに、思いを先に立ててしまうのです。

そうしたら何が残るのか。

「そういうように、考えを出した【自分が残っている】」ということです。


それだと、いつまでたっても「こうしてはいけないんだ、こうあるべきだ、こうすべきだ」というものを先に立ててしまいます。

そして自分をそれに沿わしていこうとしてしまいます。


これは「発心が正しくない」ということです。

よくよく注意しなければなりません。



礼拝 (らいはい)

2015年08月15日 | 仏教
「礼拝 (らいはい)」というのは、人を敬ったり、仏様に香を薫じて、三拝九拝することではありません。

礼拝の目的というのは【自分をなくす】ということです。


これを「五体投地 (ごたい とうち)」といいます。

「五体」とは、両手、両足、頭 のことです。

ですから、五体を地のなかに自分自身を埋め込んでしまうということです。


日日 (にちにち) が全部そうではないでしょうか。

全部が五体投地の生活なのです。


ですから、道元禅師は

「日日三時に礼拝し、恭敬 (くぎょう) して、更に患悩 (げんのう) の心を生ぜしむること莫れ」

と、言われて居ります。


礼拝をするときは、相手があるわけではありません。

自分があるわけでもありません。

【ただそのことが、そのこととして行われている】ということです。

発心 (ほっしん)

2015年08月14日 | 道元禅師
道元禅師曰く、

「発心 (ほっしん) 正しからざれば、万行 (まんぎょう) 空しく施す」

と。


どういうことかと言いますと、道元禅師の御言葉を借りれば、正しい発心とは

「仏道をならふというは、自己をならふなり」

ということです。


その「自己をならふ」とは、

「無自性、無我 (どこにも自分というものを認めることが出来ないものである、自分というのは本来ないんだ、自己というものはないんだ)」

という、そのことを知ることです。


それに向かって、日日 (にちにち) の生活をする、それを正しい発心というのです。

だからそのためには、「自己を忘るるなり」ということなのです。


「見聞覚知 (けんもん かくち)」する今の自分、これを認めて、「これが自分だ」というふうに考える、それは大変な間違いなのです。

それを、「仏の教え、歴代の覚者の教えによって忘れなさい」と、いっているのです。

そういうふうに、自分で発心しないといけないのです。

元に帰る

2015年08月13日 | 法理
おシャカ様も、達磨様も、道元禅師も、どんなにしてもお説きになれなかった「今の事実」。

言葉にも、ものにも、形にも表すことが出来なかったのです。


「そのこと (今の事実)」を私達衆生は今、おシャカ様のお示し、あるいは達磨様のお示し、道元禅師のお示しによって、【その道を行じていく】ということです。

それを行じ尽くせば、「道」もなくならなければいけないし、「法」もなくならなければいけないし、「禅 (坐禅)」もなくならなければいけないのです。

それが【元に帰る】ということです。


そういう【道理、法理】ということを、よく理解しておいて下さい。

そして、「なるほど、こういうことであるならば」という「信 決定 (しん けつじょう)」をするのです。


信が決定したら、もう脇目もふらずにお坐りになることです。

そういう修行を相続していって頂きたいと思います。

執着 (しゅうじゃく)

2015年08月12日 | 
自分の参禅の結果として、今こうあるわけです。

その結果が満足出来るものでないのでしたら、それは考えてみれば「執着 (しゅうじゃく) が足らない」ということです。


「執着」というと、仏教では忌み嫌われている言葉です。

「執着が足らない」といえば

「執着を離れる為に坐禅をしているのに、何故そんなに執着しなければならないのか」

と、言い出す人があるかもしれません。


しかし、「成り切る」という言葉を使って (それは執着と同じなのですが) 、「成り切りが足らない」と言われると「成り切るのか」というふうになります。

言葉の上では、「成り切る」は、「執着」とは全く別のことのように取られがちです。


「成り切りようが足らない」ということは、同じ意味で、「ものに食いついていく、食いついたら離さない」という、そういう「執着心」というものが、足りないということなのです。