活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

法理 3

2015年04月04日 | 法理
前回の続きです。

・心の動きを摂めるために、動かさないようにするのは心を摂める事にはならない。動きのままに任せるのが、その方法

・小が絶大、中が絶大

・おシャカ様の教えはすべて結果論

・「今の自己」が最も重要で確か。此の意味でおシャカ様の教えは不要

・何物も無くなった処が「道」の究極

・分かる分からないには継ぎ目が無い、どちらも一つ物 (同じ物)

・「人も縁起の法、そのものである」ということを理解する事が大切

・自分が「今」どういう状態で生活をしているか、その事が一番問題にならなければいけない




「華は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きけん) に生(お)うるのみなり」という言葉があります。

華自体は愛惜に散るというようなものを持って散るわけではありません。

それを感じる人が「綺麗な華が散ってしまうのは寂しい、雑草がはびこって嫌だ」と、“人” が思うのです。

散る華自体はそういう事を考えることはありません。唯、無心に咲いているのみです。草も同様です。



仏性(ぶっしょう) という言葉を聞いただけで、仏の性としてしか理解していない人が多いです。

しかし、そうではありません。仏性からいえば、仏性の働きのままなのです。



法理として、「事実」というものは考えの先にあって、考えを起こした時には「事実」は既になくなっているという事です。

ですから、私達は考えによって考えをより以上に洗練したり、考えの中で「事実」に達しようとしても出来ないのです。


「認識は事実の後に生じる」という事を知らない為に「先に目的を持たない」という考えが成立してしまうのです。

いわゆる「無所意、無所得」というものです。

「考えがあってから、事実がある」と思ってしまうのです



我無くては成らず、在っては成らないのです。









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