仏教や歴代の覚者の考えを、究極と見誤ると、様々な問題が生じます。
仏教、祖録に焦点が固定されてしまう為に、自分の問題として、「自己の正体」を見極める事が疎かになってしまいます。
仏教を見聞(けんもん) するという事は本来解決済みの言葉を、そのまま受け取る事ではなくて、自己において解決すべき問題と受け止める事です。
ところが、仏教を真理として(仏教を絶対的なものとして) 見てしまうと、その内容を覚えてしまって、本来、基準や立場を持たない「法(道)そのもの」を求めるはずであるのに、我見(偏見、法見、空見) を持って、そこで行き詰まってしまいます。
修行とは、この我見を放ち落とすことでなければなりません。
【仏教の内容は、大変に魅力的です。結果から説かれている為に、一切の問題の解決を必ず見つける事が出来ます】
しかし、問題解決を仏教の中に求めて頷いている限りでは、絶対に問題の根源の解決には至りません。
【問題の根源とは、問題を生じさせている自分自身という事】です。
「自己の正体」を見極める事なくして、只、病気の徴候のような末端症状を、【仏教という薬】で、一時的に手当を行っていては、薬害という中毒にかかることは必定です。
修行における致命的な誤りは、【修行の到達点】を誤るという事です。
【修行の出発点は修行の到達点を決定します。】
「無我、空、悟、無」を出発点とした修行では、「無我、空、悟、無」という名前の自分が残ってしまいます。
精神世界ランキング
仏教、祖録に焦点が固定されてしまう為に、自分の問題として、「自己の正体」を見極める事が疎かになってしまいます。
仏教を見聞(けんもん) するという事は本来解決済みの言葉を、そのまま受け取る事ではなくて、自己において解決すべき問題と受け止める事です。
ところが、仏教を真理として(仏教を絶対的なものとして) 見てしまうと、その内容を覚えてしまって、本来、基準や立場を持たない「法(道)そのもの」を求めるはずであるのに、我見(偏見、法見、空見) を持って、そこで行き詰まってしまいます。
修行とは、この我見を放ち落とすことでなければなりません。
【仏教の内容は、大変に魅力的です。結果から説かれている為に、一切の問題の解決を必ず見つける事が出来ます】
しかし、問題解決を仏教の中に求めて頷いている限りでは、絶対に問題の根源の解決には至りません。
【問題の根源とは、問題を生じさせている自分自身という事】です。
「自己の正体」を見極める事なくして、只、病気の徴候のような末端症状を、【仏教という薬】で、一時的に手当を行っていては、薬害という中毒にかかることは必定です。
修行における致命的な誤りは、【修行の到達点】を誤るという事です。
【修行の出発点は修行の到達点を決定します。】
「無我、空、悟、無」を出発点とした修行では、「無我、空、悟、無」という名前の自分が残ってしまいます。
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