活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

仏教を考える 8. 修行の到達点

2015年04月24日 | 仏教
仏教や歴代の覚者の考えを、究極と見誤ると、様々な問題が生じます。

仏教、祖録に焦点が固定されてしまう為に、自分の問題として、「自己の正体」を見極める事が疎かになってしまいます。


仏教を見聞(けんもん) するという事は本来解決済みの言葉を、そのまま受け取る事ではなくて、自己において解決すべき問題と受け止める事です。

ところが、仏教を真理として(仏教を絶対的なものとして) 見てしまうと、その内容を覚えてしまって、本来、基準や立場を持たない「法(道)そのもの」を求めるはずであるのに、我見(偏見、法見、空見) を持って、そこで行き詰まってしまいます。


修行とは、この我見を放ち落とすことでなければなりません。

【仏教の内容は、大変に魅力的です。結果から説かれている為に、一切の問題の解決を必ず見つける事が出来ます】


しかし、問題解決を仏教の中に求めて頷いている限りでは、絶対に問題の根源の解決には至りません。

【問題の根源とは、問題を生じさせている自分自身という事】です。


「自己の正体」を見極める事なくして、只、病気の徴候のような末端症状を、【仏教という薬】で、一時的に手当を行っていては、薬害という中毒にかかることは必定です。


修行における致命的な誤りは、【修行の到達点】を誤るという事です。

【修行の出発点は修行の到達点を決定します。】


「無我、空、悟、無」を出発点とした修行では、「無我、空、悟、無」という名前の自分が残ってしまいます。





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