活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

仏教を考える 4. 方向指示としての仏教

2015年04月20日 | 仏教
仏教が何故説かれるに至ったかと申しますと、是れは【「法(道)」そのもの】と言う事が非常に把握しにくいからです。

しかし、「法(道)」というものは、把握出来たり、理解されうるものではないので、まさに当然ではありますが。


「事実が存在して、その事実は必ず知り得るもの、説明できるもの」と言う強い先入観の上に立つ人には【「法(道)そのもの」がそのもの】として全く受け止められませんので、「法(道)」を求める事はあり得ないのが現状なのです。


そこで、その問題解決の一策として、仏教が説かれたのです。

仏教は「月を示す指」「方向指示」として、「法(道)そのもの」とは何であるか、どこにあるのか、その方向指示という機能を果たしているのです。


仏教は、「法(道)そのもの」ではなく、その代理品(事実そのものではなく、事実の説明)にしか過ぎませんが、「方向指示としての仏教」という点に着眼しなくてはならないのです。




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仏教を考える 3. ダルマ大師

2015年04月19日 | 仏教
仏教を最も明確に、しかも端的に示された「覚者」の一人にダルマ大師が居られます。

一語の解説も注釈も加えず九年間坐られました。

これこそ事実のレベルで、【事実の中から事実を示されました】。


本来この一事で、仏教の総てが語り尽くされているという事です。

言い換えれば、本来仏教という宗教が成り立つ必要なければ、【法(道)の理】を説明する必要もないのです。


仏教は、「法(道)そのもの」「事実そのもの」を出発点として説かれているのです。





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仏教を考える 2. 法 (道)

2015年04月18日 | 仏教
仏教では、おシャカ様の示された「事実」を特に「法 (道)」と表現しています。

これは「法 (道)」は、【言葉のレベル】のものではなく、事実のレベルのものである事であり、対象として認識されたものではなく「法 (道) そのもの」「事実そのもの」である事なのです。


別の言葉で言えば、「一切の認識の以外にある事実」「一切の立場、基盤を離れた事実」という事です。


ですから、「方法」という言葉の本質は「仮説」であり、法の認めようがないという事にあります。





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仏教を考える 1. 特色

2015年04月17日 | 仏教
仏教が何故に素晴らしい教えであるかを述べてみたいと思います。


仏教以外の他の宗教、哲学、自然科学は「事実の真相」を追究している点では、仏教と同じなのです。

しかし、対象としてのみ追究されていた「事実」を「認識の側」から、「言葉の側」から、事実と認められたものを解明していく場をとっているのです。

ところが、仏教は【「事実そのもの」と自ら成って】、【事実の側】から解明したものなのです。


人類で一番最初に「事実そのもの」と成られた御方を「ブッダ(仏陀)」と、呼んでいます。

その自ら「事実そのもの」と成られたブッダが、今の一切の様子を「事実そのもの」として示されたのが、仏教の教えなのです。






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丸呑みに

2015年04月16日 | 語録
「他人の学説を丸呑みにする」という言葉が在ります。

ある有名な「覚者」は、「つまるところ、道とはどういうことですか」という質問に対して「ただ、あるべきように」と答えました。

それを聞いた修行者が「“ただ、あるべきように” が道の究極だ」と、理解(認める) したならば大変な間違いになります。

何故ならば、「ただ、あるべきように」との言葉は、「覚者(結果に至った人)」の言葉です。

未だ結果に至らない修行者が、そういう言葉を【知って】自分をその言葉に沿わせて修行していたとしたら間違いだということに気付かなければなりません。



もう一例申し上げます。

「別な事をしても、何の利益にもなりません」と覚者が示されました。

それを聞いた修行者が正直に受け取ってしまい「皆が休むから、一緒に休もう」と理解してしまいました。


しかし、示された御方は三年間横にもならず修行をされた御方です。

その御方が、その結果を踏まえて「特別な事をしても何の利益にもなりません」とお示しになったのです。


ですから、「結果」から言えば「特別な事をしても何の利益にもなりません」と言う事になる訳ですけれど、それまでに【成る】には大変な努力をなさって修行されたという事なのです。


こういう事はよく承知しておいていただきたく思います。







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人(にん) と 法

2015年04月15日 | 仏教
広辞苑を繙くと、人(にん) とは

にん (人) ー イ、(仏) 人間存在、人間界、六道の一つ

と、記されています。



「法(道)」としては、自分の今の状態が「事実」です。確かにそのもの以外に「事実」は在りません。

その事は自分で良く分かるし信じられるものです。

しかし、「人(にん) 〈上記を参照〉」としては、信じるだけ、分かるだけに、そこに隔てが生じるものです。

この事を「人(にん)と法」との間に距離が生じると言うのです。


「人と法」が共に無くなりさえすれば、信じるとか疑うとかという事も無くなる訳です。

いくら「そのままで良い」と言っても自分自身で許されないものがあるものです。

そこで多少の時間をかけてでも修行が必要になって来るのです。


歴代の覚者が御苦労なさったのは「法(道)」としてはそうであっても、【人(にん)の立場】に立ちますと、なかなかそうはいきませんので、大変ご苦労なさったわけです。

ですから、「法(道)」の上からの説明を聞いて、そういうものなら、それでいいじゃないかと、丸呑みにしないでほしい訳です。





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自分自身

2015年04月14日 | 仏教
世界の宗教の全ての修行の目的が、自力他力の別なく一切の有形無形の世界と同化するという事だと、示されるならば、それは「道」というべきだと思います。

「道」は人間(にんげん) の日常生活の全てです。

人の力や何物かの力を借りて問題の解決を図るのではなく、法則に素直に任せていく事が大切なのです。


「道」という言葉に囚われると、何か特別な修行をするように考え勝ちですが、そういうものではありません。

六根(眼、耳、鼻、舌、身、意[こころ]) の働き全てを「眼」という言葉で表現すれば、此の物(自分自身) の働きは「眼」そのものです。

「眼」は綺麗だとか、汚いとか言う判断をするものではありません。

【只、映すだけ】です。

耳も、鼻も、舌も同様です。あらゆるものが六根(眼、耳、鼻、舌、身、意) の働きを縁にしているのです。

自分の心の中で好きとか、嫌いとか分別を起こすのです。

ですから「意(意識)」は分別を起こす【道具】にすぎないのです。


自分自身(此の物) は、一切の有形無形のもの(此の物) を正しく見る「眼」そのものだという事です。





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六根無作為(ろっこん むさい)

2015年04月13日 | 仏教
例えば、音は耳から自然(じねん) に入って来るだけで、聞こうと思って聞いている人間(此の物) はいません。

私達衆生(此の物) には、みんなそういう自然(じねん) の働きが在るという事です。

「ものを見なさい」「嗅ぎなさい」「味わいなさい」「歩きなさい」「考えるなさい」などと命令する人はいません。

誰も居なくても、私達衆生(此の物) はきちんと【働きのまま】に、迷わずしかも規則正しく、何の間違いもなく出来る、そういう働きがあるのです。


その事を仏教では、「六根 (眼、耳、鼻、舌、身、意) 無作為」 “ろっこん むさい” と言います。




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人間(此の物) の体

2015年04月12日 | 仏教
人間(此の物) の「眼、耳、鼻、舌、身、意(こころ)」は「色、受、想、行、識」の道具立てで構成されています。

みんな器機、機能で構成されていますから、そのもの自体には考える力がありません。

例えば、眼で物を見ると言いますが、眼は分別する道具ではありません。

又、「味わい、熱い、冷たい」が分かるという事でも、機能の働きには分別するものは持っておりません。


例えば「舌の上」に辛いものを乗せても、舌には甘いとか辛いという事を分別する道具ではありませんから、舌自体は辛いとも甘いとも言いません。

そのようにして、人の体というのは全部道具と同じようにそれぞれの働きが無いのです。

すべてがそのように集まってきていますから、自分のうまれた事も、自分の死ぬ事も分からないのは当然の事なのです。


人間(此の物) の「意(こころ)」の働きもまた、分別する道具ではありません。

【それだけのものでしかない】という事です。


人の体は何に因って好きだ、嫌いだ、美味しい、美味しくないというものが働いているのだろうかと、問題になっていかなければならないところです。




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人間(此の物) の構造 2

2015年04月11日 | 仏教
つまり人間(此の物) は、「色、受、想、行、識」という五つの集まりから成り立っているのです。

ですから、「色」という四大の働きが無いと精神の作用も起こらないのです。

そこで肉体と精神は離して考える事は出来ません。

肉体が先か、精神が先かと言えば是は【同時】に起こるものなのです。

何故ならば、肉体には六根が備わっており、この六根を通じて外部のもの、外境を受け込んでいます。

そして受け込むと「同時」に精神の作用(受、想、行、識) に因って、色々な状態が出て来るという事なのです。


【すべての物のは、一つでは成り立っていません】


人間(此の物) というものは、そういう働きだけのものなのです。

従って、肉体と精神をどれだけ鍛えても(修練、訓練しても) 実体は在りませんから、「ただそういう事をしている」という事にすぎないのです。

「自らが “道” そのものであった」という事に目醒める事が「自己の正体を見極める」という事なのです。

すべての「覚者」は、「六根の縁に因って」自己の正体を見極めているのです。




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