▼かつてCMが面白かった。今何が流行しているか、また流行してくるのか、視聴者の興味を引くCMが流れていたからだ。
▼今は情報過多になり、視聴者は選ぶ喜びを失っている。にもかかわらずCMは、相変わらず観たくもないCMを提供し続ける。
▼最近はCMが長すぎる。観たいドラマの流れを完全に絶ち切るようだ。だからCM
中はよそにチャンネルを移し替える。
▼もうドラマが始まっているかと思い、チャンネルを戻してもまだCMは続く。番組は終わっても中身もよくわかっていない。
▼だから当然NHKの視聴が増える。CMの劣化と言うべき状況だ。だがわずか数十秒のCMに、能力の全てをつぎ込んでいる制作者たちもいる。
▼CMの世界は短時間にどれほど伝えれるかと言う、知的表現にかかっている。なのでこの文化は消えてほしくない。
▼要するにテレビが情報を握っている状態では、なくなって来ているということを、業界側が意識しなければならないということだ。
▼放送100年目と言われるが、ラジオ放送からテレビに移行し、画面での情報伝達は、リアルタイムに届いた。人々は家に閉じこもり『テレビっ子』になった。
▼でもテレビっ子は、今や個人が情報の受け手や発信者になったので『家っ子』は少なくなってきたという状況を、把握しなければならない。
▼かつてテレビは家族が集まり、情報を共有する場所だった。だがそこが崩れ始めた。情報はそれぞれの個が、それぞれの情報を吸収する場と化したからだ。
▼「自民党憲法改正案」では、家族のあり方について記述がある。放送の在り方を変えても、もはや家族は居間には集まらなくなっている。
▼評論家の古谷経衡が「テレビを捨てる日本人」というテーマで、「素人が作って面白くない」という提言をしている。
▼『過激、面白いと思っている時点で、クリエーティブのセンスはゼロである。映像制作の基本を勉強していない素人はたいていこの様な考えに至る』という。
▼日本の大学には放送・映画学部が数校しかない。米国は総合大学には必ず映像学科が存在する。日本は根底で「演出」に関する教育が劣っているという。
▼『放送に与えする価値があるかないか』。視聴者が呆れる前に、製作者側が気付いてほしい。それがフジテレビ問題の最大の原因だからだ。
▼夕食の時間に「家族全員が集まってテレビを観る」。そんな観たい番組があり、そこで共通の問題で家族が盛り上がる。
▼「翌朝学校で、昨日の放送について話し合う」と言うような、国民的番組があってもいいんじゃないかと思ったりもする。
▼「今夜絶対この番組を観たい」と言うような政策側の情熱を、みせてもらいたいものだ。