夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

山崎正和『文明としての教育』(授業ノート)

2013-03-12 23:29:04 | 教育
今週から始まった春期補習では、コースの異なる二つのクラスに教えに行っている。毎日二種類の授業の予習が必要になるので(これは学期途中にはまずない)、結構しんどい。

だが、今日一方のクラスで教えた教材がとても面白い内容だったので、楽しく授業をすることができた。
よくできた評論が、どのような意図・組み立てで書かれているかを読み解くのは、知的で非常に蠱惑的な営みなのだ。

教材となる文章は、山崎正和の『文明としての教育』(新潮新書、2007)の一節。
学校教育の存在意義を文明的視点から論じたもの。

漢字や接続詞などの問題は先に済ませておき、作者・タイトルの確認。
山崎正和が批評家・劇作家であり、その評論は逆説的な言い回しや主張を好むこと、自分が受験生の頃は、山崎正和は入試評論によく取り上げられる「御三家」(他の二人は外山滋比古・加藤周一だったように思う)の一人だったことも話す。
また、タイトルはその文章の究極の要約なので(書名の場合はそうでないこともあるが)、文章を読み始める前に必ずチェックすべきことを指示する。今回の文章もそうだが、評論では冒頭の話題=主題とは限らず、文章の途中から現れる主題が、タイトルに示されるものと合致することは多いのだ。

また、ここで、最終段落の結論を先読みして、「筆者は結局、話をここに持って行こうとして、この文章を書いてるよね。」と確認させるのもよくやる。

次に、文章の最初に戻って、形式段落→意味段落の確認。話題の連続/非連続で意味段落に分け、全体の構成との関連を考えさせる。その後、意味段落ごとに生徒に音読させて、内容をまとめ、出てきた設問をその都度解いていく。

第一段落 導入
私たちは、経験のための方法、あるいは形式をあらかじめ身につけることによって、物事を真に経験することができる。

第二段落 考察
(具体例)
 ①遠近法
 ②擬声語
 ③自然科学
   ↓
 言いたいこと
 私たちは、経験に先立って、それぞれの文明にある「型」や方法を身につける。
 個人が単に経験を積み重ねるだけでは、真の経験にはならない。

第三段落 本論
Q1 教育とは何か?
A1 個人の経験の積み重ねに任せず、経験に先んじて、それを身につけるための形式や方法を教える行為。

Q2 学校教育はなぜ必要か?
A2 ①経験は記憶(知識)を伴って初めて完成する。
    そのための場として、学校教育が必要。
   ②私たちが現実行動を遂行する前に、いったん経験を離れて「練習」する場が必要。
    (例)野球の素振り

  結論
    学校教育は「行動」(通念
           ではなく
         「練習」(筆者の主張
           の場である。

教えていて、この文章が教育に関する通俗的理解を排し、文明史的な立場から、人類にとって不可欠な知恵(知識・技術・文化など)の伝承としての教育、という本質を見据えて論じられていることを強く感じ、我が意を得たりと思った。

私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しても、けっして高まることはありません。現実行動は練習のうえではじめて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使するプロセスを絶えず見直し、身につけ直さなければならないのです。
学校というものは、その意味で、あらゆる知識を現実行動からいったん切り離し、その行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。


私自身、日頃から常々、生徒に単なる知識でなく、言葉を通して物事を理解・表現する技術・手続きとそれを支えるマインドを教えられるようになりたいと願っている。その意味で、「技術を駆使するプロセスを絶えず見直し、身につけ直さなければならない」という言葉は、教師としての自分にも向けられた日々実践すべき教戒のように響いた。

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