夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

梅が香を求めて夜徘徊す

2013-03-11 22:00:38 | 日記
毎年今頃の時期は、学年末考査の採点と成績処理、春期補習とその予習などが重なって忙しい時期である。
今日も何やかやで結局、残業が遅くにまで及んでしまった。

デスクワークで室内に籠もりきり、というのも心身によくないので、ときどき梅の花を見がてら校舎の外に出て散歩する。
先ほども、闇の中を梅林(というほど本数はないが)に行き、満開の梅の香りを胸いっぱいに吸いながら、しばし現実逃避してきた。



そういえば、若き日の藤原定家も、夜の梅を堪能していたことがあったのを思い出す。
現存する『明月記』は、定家十九歳の治承四年(1180)二月から記事が始まっている。
その二月十四日の条に、次のような記述があった。
十四日 天晴る。明月片雲無く、庭の梅盛んに開き、芬芳(ふんぽう=よい香り)四散す。家中人無く、一身徘徊す。夜深く寝所に帰るも、灯髣髴として、猶(なほ)寝に付くの心無し。
日記ではこの後、火事の記録に続くがここでは言及しない。

作者の日常生活での体験と、その作品世界とを無媒介に結びつけることは厳に慎むべきだが、定家のこうした梅花、梅香への耽溺と、彼が詠んだ梅の歌に、妖しく夢幻的な情緒が纏綿していることとの間には、やはり脈絡があるように思われる。『新古今和歌集』にも収められた定家の、
  大空は梅のにほひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月(春上・40)
  梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ(春上・44)
などは、梅を詠んだ歌としては、最上の部類に入るものだろう。心を澄ませ、静かに味わっていると、洗練され磨き上げられた言葉の織りなす妙なる調べに、まるで美酒か佳曲に触れたときのような陶酔と高揚の境地に誘われる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。