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夢は夢




そんなストーリー、どうやったら思いつくん?!

というような素敵な夢をオールカラーで夜ごと見る。夜中、わたしの寝室をのぞけば、「うっそー」などと叫んだり、ゲラゲラ大笑いしている姿がご覧頂けるだろう。寝相はいいがうるさいのである(笑)。

これらの夢を録画することさえできれば、わたしはすぐにカフカやボルヘス系作家の仲間入りができるのだがなあ。

...欲求不満の中年はそう思う。


そのような奇想天外、素敵な話の筋は残念なことにすぐに忘れてしまうが、綺麗なワンシーンだけ覚えているということはよくある。


昨夜のこと。

象牙色の手洗い場のようなところで手を洗っていると、青年がやってきて

「もうすぐお誕生日でしょ」

「ケーキ、食べよね」

と言うのだ。


目が覚めたとき、実際わたしの誕生日を覚えていてケーキを用意してくれるような男は夫1人しかいない。だから彼を大事にしなければならない、と思った。

しかし、その夢が素敵なのは、ある男がわたしのお誕生日を覚えていてくれて、一緒にケーキを食べよう、というところにあるのではない。例えば夫がわたしの誕生日を覚えていたって有り難みはない。
本心を明かさない、ほとんど未知の男がひょっこりやってきて、誕生日を覚えているとにっこり告げることによって、わたしを「それはどういう意味?」と考えさせる意外性にあるのだ。


まあ贅沢を言うのはやめよう。身の程を知ろう。

見知らぬ青年のことも、カフカ級の作家になることも。


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ブルージュの幸福な日




昨日、日曜日。
ベルギーの30ほどの街が「ノーカーデイ」を行った。
市街地では、バスやタクシーなどの公共交通機関以外は、車での通行が完全に禁止されるのだ。


わたしは実際に見たことがないが、首都ブラッセルの交通量渋滞共に多い道路から車が消え、かわりに自転車やローラースケートの人たちが流動していく光景は壮観らしい。


ブルージュの市街地には信号機がない。だからまあ、普段でもそれほどの交通量があるわけではないにしても、一方通行が多く、道が狭いため、車が消えると開放感がある。
犬を連れた人や、子ども連れが普段より多かったと感じたのも錯覚ではないだろう。

あちこちの広場では寸劇、芝居、舞踏、コンサートがとり行われ、屋台が出、小型移動遊園地が出た。
わたしと夫は犬を連れて小さな広場へたどり着き、感傷的な曲をメロウに奏でるジャズバンドにへばりついてだらだらとワインを飲み、同じく犬連れの人と歓談したりした。


地元ってええですな。
わたしは残念ながらブルージュに住んでいて幸せと感じることもあまりないし、地元のカルチャーにとけ込んでいるわけでもないが。

音楽とワインと犬と秋晴れ。


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ベルサイユ宮殿と村上隆




ベルサイユ宮殿で開催中の村上隆の作品展示に関して、仏保守系団体の抗議運動が行われたことはニュースにもなった。


まず、このような抗議運動が起こる可能性まで読んでいたのならば、この展示は大成功だろう。

なぜならば村上隆が言う「(私の作品は)言語ゲーム」の狙いは、こういう抗議の「言い分」の中にこそあるからだ。たぶん。
つまり、ある状況に置かれた時に、その作品がどういう機能を果たすか、ということが彼の芸術なのである。ある空間や状況に裂け目を入れる、というような感じ。ベルサイユ宮殿には合わへんわ~、と言われてナンボ、という感じ。たぶん(へっぴり腰)。



一つ思い出したのは、前回ベルサイユを訪れたとき、ジェフ・クーンズの有名な「風船アート」等の展示が行われていたことだ。あのときは保守系団体さんから抗議はあったのでしょうかな。

わたしはベルサイユ宮殿という「空間をすべて意味で埋め尽くす、しかもできるだけゴテゴテと」という場に、クーンズや村上の芸術(しかも言語ゲーム)を置くのはすんごいええアイデアや、と思う。
ルイ14世なんかは喜ぶかもしれない(笑)。

なぜそのように思うのか考えてみよう。


クーンズの作品が宮殿内に展示されているのを見て、娘は露骨に嫌な顔をした。写真にもばっちり残っている。近所のほとんど毎日通っているホテルにクーンズが何体かあるので、彼女は見慣れてはいるのだが。

保守団体や8歳だった娘の言い分のように、ベルサイユ宮殿にクーンズや村上は合わない、という判断は、われわれにいったいどういう審査機関が備わっているからなのだろう?

そのことを考え始めたら、「美」と「芸術」は同列に語るのは是か非か、というのが頭を離れなくなった。このことに関しては全然分からないので今日は書かない。



あ、なぜ「ええアイデア」と思うか、でした。

芸術とは(神的)完全に至る、(人間的)不完全な表現ではないか、と前にも書いた

人間によって真摯に示される「完全を表現するにはこういう方法もあるけど、どう?」とか「私には世界はこういう風に見える(聞こえる感じる)けど、どう?」いう行為が「芸術」であり、しかし人間としてのリミット故にわれわれが決して「完全」に至る(満たす)ことができないとしたら、できるだけ多くの人間によって「芸術」が示されれば示されるほど「完全」に接近できるのではないか。

「空間をすべて埋め尽くす」という行為はすなわち「全」に至るという意思と欲望の現れなのではあるまいか。だからわたしはベルサイユ宮殿に村上の作品を置くことは「ええアイデア」だと思うのだ。



すっきりしなくて申し訳ないです。
美女から「村上、見に行かない?」と誘われたので、10月に行って参ります。


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iphotobook作成




娘が誕生した当時はフィルムカメラを使っていた。

ズボラでテキトーなB型ゆえ、心してアルバムを作成していたものだ。
溜めたら最後、永遠に無視し続ける己の性格を熟知していたからだった。それに初めての子どもだし。ヒマだったし。


デジカメを使うようになってからは、写真撮影数が倍々で増え続けるとともに、プリントすらしていない、そしておそらく二度と見ることもないかもしれない、いや、そこにあるということも忘れてしまった写真が、ディスクの中に溜まるようになった。

ディスクの中に溜まった写真というのは無視するためにあるようなものだ。プリントされた写真のように一時管理場所の靴の箱からバラバラはみ出して生活を浸食することもなく、ピカピカのシルバーの円盤として無機的にフォルダーに収まっているのだから。巧妙に弔われた死者、という感じさえする。



それで現状を打破すべく、義理父が季節ごとに作ってくれるアート感あふるるアルバムとは違う、「単にスナップを集めただけ」という簡素なアルバムをiphotoで作成することにした。

単にスナップを集めただけ、というのがミソなのである。
「集めただけ」だから、わたし以外の人には何の意味もなさないような平凡な風景、娘の落書き、模様替え前の部屋、旅先で撮影した何十枚もある同じような写真、ピンぼけだけれどすてきな一瞬、奇跡的に巧く生けられた花、とか、そんなヘボなものこそをどんどん入れられるのである。
ページ数が限られていないのも面倒でなくていい。ページごとに推敲しなければならないととたんにやる気も失せるから。
いい写真はあらためてそこから選んで焼くこともできる。



「四季」と名付けて、一年ごとに作成した。

一番簡素なiphotoアルバムで、ページごとに16枚、見開きでその倍数。それでも1枚の写真の大きさは5.5センチ×7センチ大で、十分情報は読み取れる。

勘定してみると、2004年までは写真も比較的審査をして作ったため、だいたい400枚くらいで25ページ前後。
その後はどの年も700枚以上で40ページ以上の構成だ。もうじゃんじゃん載せてまえ、と気持ちが吹っ切れて。


これから毎年作るのが楽しみになってきた。

ブルージュへ遊びに来てくれた友人家族らには「ブルージュの思い出」として作って差し上げるのも(わたしにとって)楽しいかも。「ええのあったら焼き増ししますぜ」と添えて。

屋根裏にあふれている娘の工作だけで作ってみるのもいいかも。子どもの作品ってなかなか処分できませんものね...

そうだ、iphotoで、例えば「私家版ブルージュ写真集/ガイドブック」を作成することもできるのだ...と思うと、多分しないだろうが(笑)、想像するのは楽しい。


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ブルージュの鐘




20年以上も前の松田聖子の楽曲に「ブルージュの鐘」というのがある。いや、あるらしい。

聖子ちゃんファンの友人から話は聞いていて、聴いてみたいという思いがようやく叶った。
youtubeは素晴らしいなあ。



大人のすることではないが、歌詞をつっこんでみたい。
(当ブログは姑のように鬱陶しく、星の王子さまのように愚痴っぽいブログです)



朝食には蜜のついたワッフル

ベルギー人は、いやブルージュでは、朝食にワッフルを食べる習慣はない。断じて、ない。
朝食にワッフルを食べるのはアメリカの習慣である。ホテルのオーナーがアメリカ人だった場合、朝食にワッフルが供される可能性はゼロではないだろうけれど。

彼女が泊まった向こう岸が教会の運河沿いのホテルはそういうアメリカンなホテルなのかもしれない。
ちなみに運河沿いのホテルは実在するが、運河沿いの教会はない。



だめね英語まるで通じない

橋の上で絵を描くベレー帽のハンサムなおじさまはいたのかもしれない。でも、英語が「まるで通じない」というのは考えられない。道を訪ねられて英語で答えるくらいならば、少なく見積もっても10人中9人が答えられるだろう。
彼女はどんなおじさまに声をかけたんでしょう?このおじさま人が悪いのかしら?それとも彼女の美しさにぼーっとなっているのかしら?



市場への道を

ブルージュに常設の市場はない。
マルクト広場(市場広場という意味)の場所を尋ねたのか?



綺麗な鐘の音 ディンドン

オノマトペの選び方はとても主観的なものだから、ディンドンと聞こえたとしてもおかしくはない。わたしにはガランガランガランとか、ガンガンガンとか、ゴンゴンガゴンと聞こえる。ガランガランでは聖子ちゃんが歌うすてきな歌詞にはならないということか。やはりここではかわいらしくディンドンですよね(笑)。






これらのことから判断して作詩をした松本隆はブルージュに実際来たことがあるのだろうか、それともないのだろうか。

わたしは「多分パリやブラッセルから日帰りで訪れたことがあるかもしれない」と推理しよう。


そして重要なこととして、この曲がブルージュ観光促進のためのイメージ作りには役に立っていることは十分に認めよう。今後20年経ってもこの曲はブルージュへの憧憬をかき立てるだろう。


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