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神戸の春の夕暮れ、そして早朝。




神戸の夕暮れ、北野町、異人館街。
17時前の、いちごとピスタチオのパフェ。






神戸に着くなり、自然に足は山手に向かい、いつのまにかこのあたりにいる。




先週は長崎旅行へ。

長崎の旧外国人居留地は、神戸の無秩序に商業化されたそれよりも、ずっと端麗だった。
丘の上に立つ居留地と海がずっと近いのもよかった。
また落ち着いたら写真を載せよう...グラバー邸のデザインは特に素敵だった。




それでも、わたしにとってはなぜか胸に迫る神戸の異人館街だ。

この日は鶯が鳴いた。
崩れるるにまかせた洋風の家のそばで。
あるじがいなくなっても春は忘れていないようである。





そして神戸の早朝、メリケンパーク。
この日は朝5時に目が覚め、無人の街を彷徨った。
神戸は昔から朝が遅くて有名なのだ...旧外国人居留地。




遠く離れた外国に暮らす自分と、19世紀に成功を求めて美しい港町へやってきた西欧のひとたちを重ねている部分もあるのか、わたしは。


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春が80本、ミツバチが1匹




水仙80本(10本1ポンド=約170円を8束)の春。



温室内のリビングルームも今日から解放した。
昨日のお客さんをご案内できなかったのが残念だ。




拭き掃除をしていたら、早速ミツバチが水仙に誘われて入ってきた。

そういえば2、3日前の英新聞ガーディアンに、「ミツバチはコミュニケーションを取るのはもちろん、自己認識し、感覚があり、原始的な意識をもつ。人間の顔と個体を識別し、心的外傷後ストレス障害にさえなる」という記事があった。
もしミツバチがこの研究の通りに「感性」を持つのなら、蜂に対する人間の倫理の問題を提示する、と。

「楽観主義、欲求不満、遊び心、恐怖...一般的には哺乳類の特性とされている洗練された感情を示すことができると主張している。実験では、ミツバチはPTSD心的外傷後ストレス障害のような症状を経験し、さまざまな人間の顔を認識し、寝ている間に長期記憶を処理し、おそらく夢を見ることさえできる」

ということはワーズワースの『水仙』のような夢を見るのだろうか...


今年の水仙、茎が例年よりも短いような気がする。
こちらは先週の水仙。

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cinderella


Luca Acri, Gary Avis (Stepsisters), Vadim Muntagirov (Prince) and Marianela Nunez (Cinderella)
in Cinderella. Photograph:@Tristram Kenton/the Guardian



シンデレラ、きらめくフェアリー・テイル。
暖炉の灰(<「シンデレラ」の名前はここからきている)の中の燃えカスのような希望、清く正しく美しく生きる先に約束された幸福。

一方で原話は怖い、おとぎ話のひとつでもある。


ボロをまとっていても内側から発光するシンデレラの美しさ、シンデレラが未来を切り開くきっかけを与えるまばゆい妖精たち、白銀色に輝く優雅な王子様。

もう一方には、おとぎ話の残忍さや不穏さを底に隠すプロコフィエフの音楽、英国伝統のデフォルメの効いた「パント」(英国のパントマイムPantomineは、流行歌やダンス、醜悪な誇張やジョークなどが盛り込まれた大衆的な笑劇のこと。絶大な人気を誇る。英国では無言劇のことは単に「マイム」と言われる)...

の2つの車輪でこの物語はすすんでいく。

秀逸だな。


1948年にフレデリック・アシュトンによって製作された『シンデレラ』が、新プロダクションになってロイヤル・バレエに戻ってきた。

先日のリハーサル、オープニング・ガラに続いて3回目のMarianela Nunez・シンデレラ・バージョンを見た。わたしはもう一枚チケットを持っている...

Marianela Nunezの、ロイヤル・バレエのダンサーとしての25周年を祝し、前回のガラでは銀メダルを授されるというサプライズもあった。


Cinderella Photograph:@Tristram Kenton/the Guardian



新プロダクションで一番成功しているのはなんといっても舞台芸術だと思う。
現代の映像技術を駆使して、妖精の魔法の粉がまぶされた、ファンタスティックで、どこかにある遠い世界がオペラハウスの舞台に再現されてすばらしい。

内容は、バレエよりも「演劇」の方に特に比重が大きいことが挙げられるだろう。
英国バレエは伝統的に「演劇性」「感情の表現」を大切にしている。この点が例えばロシア・バレエのファンにロイヤル・バレエが腐される点でもある(わたしはどちらも好きだ)。ロイヤルの「顔芸」が気に入らない、という意見はしょっちゅう見かけるし、まあそれくらいしか批判できる点がないのでは、と思ったりもする...
(逆にロシア・バレエには「(魂もない)ダンボールの切れっぱしのような」などという非難もあるのでお互い様である)


しかし、それでも、今回ばかりはわたしも「踊りが少なーい!」と思う。バタバタ走り回っているのが多すぎるように感じてしまう。
この作品の魔法を担保しているのは、ひとえにNunezとVadium Muntagirov(王子)のパ・ド・ドゥの完璧さ、正統さにある。これによって魔法がかけられている。
そうでなかったら...たちまち消えてドタバタのカボチャにかえってしまいそう。


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