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Brugge Style
土地の終わり サンタ・マリア・デ・レウカ
5月末から6月にかけて、友達と車で巡った南イタリア旅行、ついにデ・フィニバス・テラエ、「土地の終わり」へやってきた。
わたしはここよりも少し手前のカストロの方にばかり注目していたが、友達が提案してくれてよかった。
イタリア半島のブーツのヒールのかかとの最南端、サンタ・マリア・ディ・レウカ。
ここでイオニア海とアドリア海が交わる。
先端ポイント
違う海水が混じるというわけではもちろんないものの、「イタリアの終わり」であり、「別の世界の始まり」だ。
海が混じり合うように、西と東の異文化が混じり合う。
陸路としてのイタリアはここで尽きるが、対岸にはギリシャやアルバニア(80キロ)があり、ビザンティン世界が始まるのだ。
晴れた日には、レウカからアルバニアの山影がうっすらと見えることがあるそう...はーっロマン!
洞窟がたくさんあるそうで、観光スポットになっている
わたしはこういった「境界」がたまらなく好きなのである。
橋、アーチ、岬、洞窟、巨木、森、霧、嵐、海岸などの水辺、夢...(神戸やヴェネツィア、タンジールやイスタンブールが好きなのも同じ理由!)
そういった場所は「こちらの世界」と「向こうの世界」がひそかに接している場所だと考えられてきた。
サンタ・マリア・ディ・レウカのように...土地が尽きる岬に、灯台が鳥居のような役割を果たし、よりいっそう異界感をまとっている。
海の水平線は「この世」と「彼の世」を隔てる境界線のようであある。
わたしが惹かれる「境界」は、地理的な果てであると同時に、神話的・精神的な異界の入り口でもある。
「異界の門」は常に危険でありながら豊穣の源...恐怖と魅惑が共存する。
この二面性が、境界を永遠に人を惹きつける場にしているのであろう。
サンタ・マリア・ディ・レウカは、小さな漁村であり観光地であり、「旅の終わり」であり「巡礼の入り口」でもあり、一種の磁力を放っている。
まるで本当に世界がここで終わり、彼方に未知の国が広がっているような感覚に包まれる。
伝説によれば、聖ペテロがローマへ向かう途中に立ち寄り、最初のミサを捧げた場所だと。この瞬間が記念され、聖マリアに捧げられた聖域として町の名にも刻まれたという...
ここでアイス・エスプレッソを飲んだのもいい思い出...
ここからはもう車では南へ行けない。
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otranto ヨーロッパ危機一髪
友達と車で周遊した南イタリア、美しいバロックの、愛らしい山頂の、あるいは海辺の街をたくさん訪れたが、わたしが一番気に入ったのが、イタリア半島のブーツ型のハイヒールかかとに近いオトラントだった。
到着が早朝だったからか、大聖堂に続く道は朝の光に照らされつつ、いまだ微睡んでおり、城は何もなかったかのようにすっくとたたずみ、色鮮やかな花が風に揺れて青い空と海に映えていた。
なんと美しいところなんだろう...
7世紀末から、北アフリカを拠点としたサラセンの海賊(サラセン:北アフリカのイスラム教徒)は、1830年にフランスがアルジェリアを植民地にするまで、1000年の間、恒常的にヨーロッパ沿岸を脅かした(前回の記事に詳しい)。
サラセン人にとって、海賊行為は単なる略奪ではなく、むしろ制度化されたビジネス・モデルだった。
農業や交易に従事するよりも、異教徒の共同体や船から、富と人間を奪い取る方が効率的だと考えられていたのだ。
ちなみに現在の資本主義は 「制度化された海賊行為」 といえる。
焼畑農業的な収奪スタイル(資源を取り尽くしては次のフロンティアに移る)。
サラセンの海賊と現代資本主義は、「持続性を犠牲にして即時的な収奪に走る」という点で共通点を持っているのだ。
ただ、海賊は労働力の原始的蓄積はしたが、労働力の商品化はせずに財産化しただけだったので、サラセンの海賊からは資本主義は始まらなかったのだろう。
ああ、話が逸れそう...
北アフリカの沿岸を出立した海賊船は、風に乗って北上し、目と鼻の先のイタリアやシチリア、南仏沿岸を繰り返し急襲する。
農村や修道院は掠奪され、放火され、住民は奴隷市場に送られるか、身代金を目的に拉致されることが常態化していたのである。
この「海賊経済」は、15世紀になると、地中海に後発的に進出してきたオスマン帝国にとって格好の手段となった。
本来、遊牧的起源をもつオスマン帝国は、伝統的な「海の民」ではなかったため、既存の海賊勢力を利用して、スパイや局地的襲撃の下請けとして組織化したのである。
これにより地中海世界の軍事バランスは一変したと言っていいだろう。
その象徴的事件が1480年の「オトラントの戦い」である。
スルタン・メフメト2世 は、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させた人物であり、常にキリスト教世界攻略を構想していた「征服者」であった。
その命を受けた海賊中心の艦隊がオトラント沖に現れたのである。
上陸すると、オトラントをあっという間に占領した。
これはオスマン帝国がイタリア本土侵攻を実際に試みたただ一度の事件であり、「ついに教皇庁の喉元にまでトルコの脅威が迫った」という衝撃がキリスト教世界に広がったろう。
この沖に大艦隊が...
実際、オスマン軍はローマ進軍を視野に入れていたが、翌年、メフメト2世が急死する。
彼が急死したことでオスマン帝国中枢は後継者争いに明け暮れ、補給線は壊滅し、イタリア諸勢力の反発を受け、オスマン軍は撤退を余儀なくされた。
イタリアにとって、カミカゼが吹いたのだ。
こうしてイタリア侵略は「未遂」に終わった。
テーマは「聖と邪の生命の樹」といったところ
インフェルノ 地獄。トルコ軍の襲来はまさに地獄絵図だったろう...
その遺骨を祀る骸骨祭壇...
オトラントの大聖堂には、戦闘後に虐殺されたオトラント住民813人の骨がバロック的意匠をもって展示されている。
もしメフメト2世が死なず、オスマン軍がそのまま南イタリアから進軍を続けていたなら、ルネサンス期のローマ、ひいてはヨーロッパ文化の展開そのものが大きく異なった運命をたどっていただろう。
オトラントの戦いは、小さな町での局地的な銭湯ではなく、イタリア史における最大級の「もしも」をはらんだ歴史的転換点だった。
それも今は昔...
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サラセンの塔
詩人の洞窟 Grotta della Poesia
左手に崩れた塔が見える...
書き留めはしていた旅の断片、片付かないそれらに後ろ髪をひかれるので、一部を生き返らせてここに載せることにする。
今日、明日は、5月末から6月にかけて南イタリアを友達と旅行した話の続きを。
歴史教科書的には、
「西暦800年にカール大帝が神聖ローマ皇帝になったのは彼が偉大だったから」
「スカンジナビアにルーツを持つノルマン人がイタリアに王国を作ったのは、彼らが南下してきたから」
といったタイプの説明が中心で、因果関係が見えにくく、あまり面白くない。
しかし、例えばそこに「サラセンの海賊」(サラセン:北アフリカのイスラム教徒)という軸を導入するとどうだろう。
ヨーロッパの動きが立体的に見えてくる。しかも面白い。
カール大帝が神聖ローマ帝国皇帝位を授けられたのは、キリスト教世界をサラセンの海賊から軍事力で守りたいローマ教皇のアイデアでだった。
ノルマン人がイタリアに王国を建てたのは、キリスト教世界をサラセンの海賊から守るために傭兵として雇われたのがきっかけだった。彼らはたまたま聖地巡礼の帰途でイタリアに立ち寄っていたのだ。
こちらはオストゥーニ
他にも...
南仏にも「鷹の巣村」と呼ばれる、山上の小さく美しい村がたくさん残っているが、あれらは美しさを追求して作られたわけではなく、サラセンの海賊から逃れた人々が、高地に避難して築いた防衛的集落の名残である。
イタリア(ローマ教皇領を含む)の都市防衛、海軍の充実、騎士団の設立、歴史に残る対戦や名将までもが、海賊の脅威によって左右されたのだ。
雲丹を求めて訪れたのだった...
この海上に海賊が現れたのか...
右下「サラセンの塔」と書いてありますね
イタリアの、特に南イタリア海岸沿いに点在する「サラセンの塔(Torri saracene)」は、海賊の攻撃から街を防衛する海岸監視塔群の総称だ。
わたしが南伊で必ず見たかったものはバロック建築やヴァナキュラー建築などもあったが、特にこの「サラセンの塔」だった。
7世紀頃から始まるサラセンの海賊による地中海沿岸への襲撃は、ローマ帝国崩壊(476年)後の混乱と、権力の空白を突くかたちで、イタリア、南フランス、スペインなどの歴史に大きな影響を与えた。
サラセンの海賊行為はビジネス化していた。
村を掠奪し、焼き払い、人を奴隷にし、あるいは身代金要求のために誘拐するという過酷なもので、15世紀以降オスマン帝国の後押しを受けた海賊にいたっては帝国のお墨付を持っていた。
この襲撃は、なんとなんと、最終的にフランスが1830年にアルジェリアを征服・植民地化したことを一つの転機として終息していくが、実に1000年以上の長きにわたって、地中海世界は海賊に対する恐怖と共存しなければならなかったのである。
ブーツのヒールのかかと
ここはアドリア海とイオニア海が交わるところ
イタリアには地名に「Torre(塔)」が残る場所が多い。
そうでなくても、海岸線沿いに並ぶ、今は半ば崩れ、あるいは最近まで使用していたかのような塔は、海賊の被害を少しでも避けるために人々が建てた狼煙をあげるための塔...「海上に海賊船、逃げろ」と。
これらの塔は、南イタリアのどこまでも深く青い空と海に融合し、歴史の記憶装置のように...残っている。
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コッツウォルズ、アリスが冒険した庭園?
確かに『不思議の国のアリス』の世界が漂っている...
こちら、安穏としたコッツウォルズの丘陵にあるマナー・ハウス。
建物もイタリア式で美しいが、庭園が特に...
というのも、近隣のオックスフォードで数学教授をしていた ルイス・キャロル(チャールズ・ドジソン)が、近くの牧師館に滞在中、この庭園に着想を得てあのファンタスティックな話を語ったという逸話が残っているのだ。
アリスが冒険した庭あり、くまのプーさんの100エーカーの森のモデルあり、南イングランドはいいところなのよぉ。
イングランドには、いくつあるのかと驚くほど、こうしたマナー・ハウス(領主の邸宅)が点在している。
今回は、娘がランチに連れて行ってくれた、この コウリー・マナー Cowley Manorを紹介したい。
いつまでも眺めていられる...
この邸宅は、英国のカントリー・ハウスの伝統と、19世紀に流行したヴィラ建築の洗練を昇華させた建物だという。
建築様式は、19世紀に英国や米国で流行の イタリアネート様式。イタリア・ルネサンスの田園ヴィラに着想を得た建築様式だ。
イタリア趣味は建物だけでなく、『不思議な国のアリス』のイメージをルイス・キャロルに与えた庭園にも及ぶ。
庭は 約55エーカー(22ヘクタール)。
アップダウンのリズム感のある芝生の奥には林が広がり、草花が繁り、左右対称のイタリア式階段状の噴水を配し、自然のままの小川や池を取り入れ、ボートハウスあり、迷路のような小径がどこまでも続く。
美しい船底天井のチャペルもある。
ウサギの穴があり、鳥が歌い、魚が泳ぎ、リスが木を駆け上る。
レストランや、ホテルとして再生したマナー・ハウスは多いが、建物のファサードと庭は立派ですばらしくとも、ソフト面(食事の質や掃除やメインテナンス面)がいまひとつなところも多いので訪問時には注意が必要だが、こちらはとても素敵だった。
わたしに一財産あったら、こうしたマナー・ハウスを改装して開放したいものだが...まずは神戸の異人館から始めるかな。次はイタリアヴェネト州のヴィラ。
おまけ...
この地 Cowleyは、かつて王領の一部であり、伝承によれば、エドワード懺悔王(ノルマン征服以前の最後のアングロサクソン系イングランド王)がロンドンのウェストミンスター寺院の建立のため、教会と土地交換を行った...とホテルの紹介には書いてある。
中世には修道院の所領となり、17世紀には王党派の貴族によって最初の邸宅が建てられる。
その後、19世紀半ばにロンドンの株式仲買人が土地を取得し、建築家ジョージ・ソマーズ=クラークの設計により、現在の建物が完成した。
20世紀には戦時中、寄宿学校として使われたこともあり、自治体の所有を経て、2002年からはホテルとして再生...いつまでも残って欲しいですね。
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にちにち
近所のチェーン店で。
フランボワーズと生クリーム、ピスタチオのクリームの組み合わせのパン。
庭の薔薇、今年3サイクル目。
お天気がいいのでロンドンへ。
オーストラリアから服が届き、ナショナル・ギャラリーにカルロ・クリヴェッリが見に行きたくなったのだ。
どのあたりに関連があるのかといえばですねえ、ここ10年ほどオーストラリアのデザイナーに傾倒していて、箱を開けて、「ああ、わたしはキャンプがとても好きなのだ」と思ったの(笑)。
(キャンプは様式のほう。キャンプ・ファイヤーのキャンプじゃないよ・笑)!
キャンプな服だけでなく、カルロ・クリヴェッリも『白鳥の湖』も最高に好き。そうだ、クリヴェッリ見に行こう! と。こういうわけだ。
逆にフロベールやブラームスも最高に好きなのはなぜ。
(ジャンルに優劣があるのではないからだ、それは)
友達とおやつの時間...@マリルボーン。
しゃべりすぎでどんな味だったか記憶が薄い。
広州出身だという、かわいらしいウェイトレスさんとロンドンの食について話す...日本語で!
生在蘇州、穿在杭州、食在広州、死在柳州。
子供の誕生を盛大に祝う蘇州で誕生し、杭州の上質な絹織物を身につけ、広州の美食を楽しみ、柳州の木材で作られた棺に入って死ぬ...という中国人理想の生き方。
夏の花。玄関が暗めなので白っぽい花を活けるのが好きだ。
夏は店頭の花はどれも満開だが仕方がない...
ロブション風のスープのパイ包み、焼けた。
にちにち。
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