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Brugge Style
パラッツオ・マッシモ
この憂愁のうしろ姿よ...
ローマのテルミニ駅のすぐ前、木陰一つないエリアにあるサンクチュアリ、パラッツォ・マッシモは、古代ローマ美術の殿堂、まるごとローマ文化の総合的アーカイブだ。
古代ローマの芸術が、いかに帝国の正当性や権力、理想、その物語を誇示したかを、社会的・時間的文脈において再構築する。
これでもかっ! というほど古代ローマの白い彫刻で埋め尽くされてい、途中で集中力が途切れそうになるものの、わたしとは生きる時代も、規範も、理想も、信条も違う人たちの世界を見るのはたいへんおもしろく、見応えがある。
こちらも訪れている人は少ない...
胸を打つ、『休息するボクサー』。
このブロンズ像は、敗北、負傷、痛み、老い、そして人間の尊厳を永遠に刻む。
人間の生を抽出して理想化したヘレニズム文化の粋である。
ギリシア美術はもともと「若さ」「均整」「理想美」を理想としたのにもかかわらず、『休息するボクサー』は、ギリシア的「理想の美」を超え、人間の有限性や脆さ儚さをあえて前景化している。
しかもそれをブロンズという耐久性の高い素材に刻み込み、滅びゆく肉体を「尊厳」として永遠に残すという逆説的なやり方で。
古代ローマというものはもともと古代ギリシャの直系の子孫だ。
ローマ人はギリシャで「この像は残すに値する」と判断し、ギリシアからローマへ運ばせて、公共空間に据えたのである。すばらしい美的感覚の成熟。
日本には「侘び寂び」という滅びの美や不完全な美を理解する文化があるが、西洋にはそういうものは近代になるまでほとんど見られない(傷ついたキリストくらいかなあ)のだ...
瞬時に反転して破滅に変わりうると教える
『休息するボクサー』や『ニオベーの娘』に強く現れる「滅びの美」をフロイト的に読むなら、生のエロスと死の欲動の緊張から文化や芸術が生まれるという構図になる。
人間は滅びや破壊に抗しきれず、そこに魅惑や快楽を見出してしまうというのだ。
また、バタイユは「死・消尽・破壊」を、美とエロティシズムの核心に据えた。
バタイユにとってそれは、人間が最も美に震える瞬間であり、存在の極限で開かれる体験なのである。
したがって、フロイト的に言えば「滅びの美」は芸術を駆動する両輪の片方であり、バタイユ的に言えば「滅びの美」は人間が世界と断絶する刹那に立ち現れる極限の美的経験なのである。
なんと耽美的な!
こう整理すると、日本的な「滅び、無常、静寂の美」とは対照的に、西洋的な「滅びの美」は「死の欲動」と「崇高さ・エロティシズム」とが絡み合う、より激しい表現に根ざしているのがわかる。
どうです、このボクサーやニオべの娘の放つこのエロス。
下の写真の、『神官姿のアウグストゥス』が薄っぺらく見えるほどだ。
アウグストゥスは、ローマ帝国のイメージと重なり合い、素晴らしい美男で、常に永遠の若さで描かれる...
下の写真は、比較的新しくコレクションに加えられた《象牙の仮面》に見られのは葬送の儀式。
死者を共同体の記憶に統合し、祖先崇拝を制度化するという芸術の役割を説明しつつ、死のマスクは艶かしく、幻惑的だ。
毎日少しずつ見たい美術館...
(でもわたしは今回丸一日で全部見るという無謀をしてしまった)
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パラッツオ・ヴェネツィア
中庭、すてき
ローマの中心、ヴェネツィア広場には、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂の向かい側に、堂々たるルネサンス様式の宮殿、パラッツォ・ヴェネツィアがある。
15世紀のヴェネツィア出身教皇パウルス2世が、自らの居館兼教皇庁舎として建てたのが始まりだそう。
後にヴェネツィア共和国の大使館として使われた。初期ルネサンス様式の代表的な宮殿建築で、ローマでは最古級のルネサンス建築だ。
20世紀には、ファシスト政権の舞台となり、ムッソリーニがかの有名な「バルコニー演説」を行ったその場所である。
ムッソリーニはローマ帝国の栄光を自らのファシズムに重ね、群衆を煽り、熱狂へと煽り立てた。
ファシズムは、何を実現できるかなどの政策は問題にせず、「共感」で人間性を「束ねる」ことであり、非常に危険だ。
さすがヴェネツィア大使館だったことはある、ジョルジョーネの作品が...(ジョルジョーネ大好き)。
チェーザレ・ボルジアのこの肖像画、ここにあったのね...
しかも、鎧の他武具が展示してある部屋に、イーゼルに無造作にかけてあったので、これはコピー? と思ったほどだった。
チェーザレなら、ムッソリーニをこう評価するかもしれない。
「権力とは舞台で拳を振り上げてみせ、「指導者!」と呼ばれて酔うことではない。権謀術数の連続でのみ鍛えられるものだ。群衆の熱狂を煽る者は、真の君主ではない、ただの道化だ。喝采に溺れる支配者は、いずれ喝采に滅ぼされる」とかね!!
チェーザレに『君主論』を捧げたマキャヴェッリなら
「群衆に向かって拳を振り上げるだけの男を、君主と呼ぶことはできぬ。権力とは喝采を受けることではなく、秩序を築き、国家を保つ力だ」
こちらも人は少ない。
一方、向かい側のウェディングケーキのような、生クリームでゴテゴテ飾られたようなヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂は大人気だ(無名戦士の墓があるので当然だが)。クレーム・シャンティイ様式。ローマっ子はこれを「義歯」と評することもあるそう...
パラッツォ・ヴェネツィア、冷房が効率よく効いていないけれど、こちらもモエのお気に入り...
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ローマの秘密
ナイル川で溺れて死ぬ 陰謀の匂い...
今年はわたしにとってはイタリア巡礼の年(リストの曲...)で...
来週からもイタリア、トスカーナを中心に。
ローマには今年すでに2回行った。
今回からはローマの話の続きを。書きかけを生き返らせよう。
ローマの観光スポットは常に激混みである。
ロンドンが、パリが、京都が、年間を通して常にそうであるように。
ローマ国立博物館の分館のひとつ、パラッツォ・アルテンプス(Palazzo Altemps)は、ご存知?
ローマの中心部にあるものの、入り口がつつましいからか、観光の目玉が他に多すぎるからなのか、人っこ一人いない、わたしの大のお気に入りである。
なんせ、古代ローマ彫刻の至宝を、ルネサンスの邸宅で鑑賞できるという特別な体験ができる場所なんですぜ。
静けさと親密さと、ローマにいる喜びにひたれる場所。
古代の白い彫像が、ルネサンスの目にも彩な装飾が施された壁画と天井に共鳴し、特別な「場」をつくる。
外の喧噪から離れると、小さめながら華やかな中庭、建物の裂け目からのぞく遺跡、ルネサンスのカラフルな装飾のある回廊、各部屋に静かに置かれた古代の石像があなたをむかえる。
「ローマ」という大舞台の上、時間を断層のように重ね...
まるで個人のコレクターのサロンに招かれたような気分になる。
集められているのはルドヴィージ家やアルテンプス枢機卿が愛した「知的おもちゃ」であり、現代の鑑者は沈黙の饒舌さという贅沢が味わえる。
シタラという楽器を持つアポロ像。
古代ギリシャ・ローマの神々は複数の役割や象徴を抱えた多面的な存在だった。
社会は、自らに都合のよい側面だけを選び取るという選別を行ってい、古代ローマは、皇帝の守護神として(特に初代アウグストゥス)の荘重さ、宇宙と国家の調和を象徴する芸術神として威厳を表すミュージシャン姿のアポロを選んだ。
統治の正当性を裏づけるための、芸術的プロパガンダ...
パラッツォ・アルテンプスの魅力は「展示」よりも「対話」である。
重要な作品がこんなに無造作に...
彫刻をもっと見てみよう。
戦いの神、アレスが静かに座っている。戦の神の「安らかな一瞬」。暴力と静謐の同居による不気味さ。
『ルドヴィシの玉座』
玉座(ルドヴィージ・スローン)は、謎めいている。
現代に残る古代ギリシャ彫刻は、ローマ時代の模刻であるケースが多いものの、『ルドヴィシの玉座』は紀元前5世紀のギリシャで制作されたオリジナルだ。
女神アプロディーテの誕生を描いたものとされるものの、由来などは不明である。
ペルセポネの冥界からの帰還、あるいは秘儀的なイニシエーションの象徴とする説も根強い。
いずれにせよ、女性性・誕生・神秘性といった主題を扱い、古代ギリシャの宗教意識と象徴体系を知るうえで貴重な手がかりである。
だからだろうか、教科書などにもよく使われるものなので、知っている人は多いと思う。
観る者は誰でも解釈者の一人にならざるを得ない、という特権...くらくらする。
壁と天井には善悪に分かれて戦う、プット(クピド)の群れ...
そして個人宅に付属するチャペルがある。
この場は宮殿の「心臓部」である。
豪奢なサンクチュアリ。
キリスト教的な祈りの場に、古代の神々の聖性が同居しているのがローマらしい。
次回もローマで続けていいかしら?
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土地の終わり サンタ・マリア・デ・レウカ
5月末から6月にかけて、友達と車で巡った南イタリア旅行、ついにデ・フィニバス・テラエ、「土地の終わり」へやってきた。
わたしはここよりも少し手前のカストロの方にばかり注目していたが、友達が提案してくれてよかった。
イタリア半島のブーツのヒールのかかとの最南端、サンタ・マリア・ディ・レウカ。
ここでイオニア海とアドリア海が交わる。
先端ポイント
2種類の異なった質の海水が混じる、というわけではもちろんないものの、「イタリアの終わり」であり、「別の世界の始まり」だ。
海の二つの名が出会うように、西と東の異文化が出会う。
陸路としてのイタリアはここで尽きるが、対岸にはギリシャやアルバニア(80キロ)があり、ビザンティン世界が始まるのだ。
晴れた日には、レウカからアルバニアの山影がうっすらと見えることがあるそう...はーっロマン!
洞窟がたくさんあるそうで、観光スポットになっている
わたしはこういった「境界」がたまらなく好きなのである。
橋、アーチ、岬、洞窟、巨木、森、霧、嵐、海岸などの水辺、夢...(神戸やヴェネツィア、タンジールやイスタンブールが好きなのも同じ理由!)
そういった場所は「こちらの世界」と「向こうの世界」がひそかに接している場所だと考えられてきた。
サンタ・マリア・ディ・レウカのように...土地が尽きる岬に、灯台が鳥居のような役割を果たし、よりいっそう異界の始まり感を演出。
海の水平線は「この世」と「彼の世」を隔てる境界線のように広がる。
わたしが惹かれる「境界」は、地理的な果てであると同時に、神話的・精神的な異界の入り口でもあるのだ。
「異界の門」は常に危険でありながら豊穣の源...恐怖と魅惑が共存する。
この二面性が、永遠に人を惹きつけるのであろう。
サンタ・マリア・ディ・レウカは、小さな漁村であり観光地であり、「旅の終わり」であり「巡礼の入り口」でもあり、一種の磁力を持っている。
本当に世界がここで終わり、彼方に未知の国が広がっているような感覚に包まれる。
伝説によれば、聖ペテロがローマへ向かう途中に立ち寄り、最初のミサを捧げた場所だと。この瞬間が記念され、聖マリアに捧げられた聖域として町の名にも刻まれたという...
ここでアイス・エスプレッソを飲んだのもいい思い出...
ここからはもう車では南へ行けない。
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otranto ヨーロッパ危機一髪
友達と車で周遊した南イタリア、美しいバロックの、愛らしい山頂の、あるいは海辺の街をたくさん訪れたが、わたしが一番気に入ったのが、イタリア半島のブーツ型のハイヒールかかとに近いオトラントだった。
到着が早朝だったからか、大聖堂に続く道は朝の光に照らされつつ、いまだ微睡んでおり、城は何もなかったかのようにすっくとたたずみ、色鮮やかな花が風に揺れて青い空と海に映えていた。
なんと美しいところなんだろう...
7世紀末から、北アフリカを拠点としたサラセンの海賊(サラセン:北アフリカのイスラム教徒)は、1830年にフランスがアルジェリアを植民地にするまで、1000年の間、恒常的にヨーロッパ沿岸を脅かした(前回の記事に詳しい)。
サラセン人にとって、海賊行為は単なる略奪ではなく、むしろ制度化されたビジネス・モデルだった。
農業や交易に従事するよりも、異教徒の共同体や船から、富と人間を奪い取る方が効率的だと考えられていたのだ。
ちなみに現在の資本主義は 「制度化された海賊行為」 といえる。
焼畑農業的な収奪スタイル(資源を取り尽くしては次のフロンティアに移る)。
サラセンの海賊と現代資本主義は、「持続性を犠牲にして即時的な収奪に走る」という点で共通点を持っているのだ。
ただ、海賊は労働力の原始的蓄積はしたが、労働力の商品化はせずに財産化しただけだったので、サラセンの海賊からは資本主義は始まらなかったのだろう。
ああ、話が逸れそう...
北アフリカの沿岸を出立した海賊船は、風に乗って北上し、目と鼻の先のイタリアやシチリア、南仏沿岸を繰り返し急襲する。
農村や修道院は掠奪され、放火され、住民は奴隷市場に送られるか、身代金を目的に拉致されることが常態化していたのである。
この「海賊経済」は、15世紀になると、地中海に後発的に進出してきたオスマン帝国にとって格好の手段となった。
本来、遊牧的起源をもつオスマン帝国は、伝統的な「海の民」ではなかったため、既存の海賊勢力を利用して、スパイや局地的襲撃の下請けとして組織化したのである。
これにより地中海世界の軍事バランスは一変したと言っていいだろう。
その象徴的事件が1480年の「オトラントの戦い」である。
スルタン・メフメト2世 は、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させた人物であり、常にキリスト教世界攻略を構想していた「征服者」であった。
その命を受けた海賊中心の艦隊がオトラント沖に現れたのである。
上陸すると、オトラントをあっという間に占領した。
これはオスマン帝国がイタリア本土侵攻を実際に試みたただ一度の事件であり、「ついに教皇庁の喉元にまでトルコの脅威が迫った」という衝撃がキリスト教世界に広がったろう。
この沖に大艦隊が...
実際、オスマン軍はローマ進軍を視野に入れていたが、翌年、メフメト2世が急死する。
彼が急死したことでオスマン帝国中枢は後継者争いに明け暮れ、補給線は壊滅し、イタリア諸勢力の反発を受け、オスマン軍は撤退を余儀なくされた。
イタリアにとって、カミカゼが吹いたのだ。
こうしてイタリア侵略は「未遂」に終わった。
テーマは「聖と邪の生命の樹」といったところ
インフェルノ 地獄。トルコ軍の襲来はまさに地獄絵図だったろう...
その遺骨を祀る骸骨祭壇...
オトラントの大聖堂には、戦闘後に虐殺されたオトラント住民813人の骨がバロック的意匠をもって展示されている。
もしメフメト2世が死なず、オスマン軍がそのまま南イタリアから進軍を続けていたなら、ルネサンス期のローマ、ひいてはヨーロッパ文化の展開そのものが大きく異なった運命をたどっていただろう。
オトラントの戦いは、小さな町での局地的な銭湯ではなく、イタリア史における最大級の「もしも」をはらんだ歴史的転換点だった。
それも今は昔...
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