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シルクロード遥か



ウズベキスタンのブハラ、ソグド人の宮殿を彩った壁画。8世紀ごろ
侵攻してきたイスラムかインドの影響か、あるいは土着の信仰か、白い象は何を象徴するのか謎に包まれている


喜多郎の音楽と、石坂浩二のナレーションにのって、目の前が一気に開ける気がした。

正しい昭和の子供であったわたしは、NHKが80年から放送を始めたドキュメンタリー『NHK特集 シルクロード』に熱狂したひとりだった。


砂漠のオアシスの宿場町、澄んだ瞳をした人々が、とっておきのカラフルな晴れ着を着て踊る。
西洋とも東洋ともいえない顔つきの美しい子供が、カメラに向かってはにかんで笑う。

何千キロも離れた村と村に見られる楽器や謡曲の共通点。
圧倒的な自然の中にこつぜんと現れる遺跡を背景にして子供が悠々と羊を追う。

歴史を記すことなく消えていった民族。
用の美。

先へ先へと移動していく冒険者の読む空の星。
ラクダの群れ、遊牧民のテント、砂嵐、雪解け。



ウイグルの弔旗。
このころ、ウイグルではササン朝ペルシャを起源に持つ、マニ教を受け入れた。
ビザンティン美術との共通点があるように思えて驚く。トルファン、10世紀ごろ


日本は経済成長のまっただなか、人々の関心は、「先進」諸国だけでなく、いまだ謎に包まれた広大なエリアにも向いていった。

神戸の異人館が大ブームになり、家族全員が見るテレビから流れる歌謡曲にエキゾティックな国や街の名前が登場し、万国博覧会が華やかで、雑誌などもこぞって特集を組んだのと同じ時期だ。


なんとワクワクさせられたことだろうか。
ボルヘスのバベルの図書館に立っているような!

あのころのときめきをもう一度体験できるなら、わたしはなんでもするだろう...




2024年9月、ロンドンの大英博物館で『シルクロード』展が開催されると聞いて小躍りしたのは当然だ。

大英博物館には、シルクロードの探検と研究に先鞭をつけたひとり、オーレル・スタインのコレクションがある。


「シルクロード」特別展の展示は、奈良の正倉院から始まった。

正倉院がシルクロードの行き止まりであり、今はもうそれぞれの土地では完全に失われてしまった貴重な文物が、磁石に引き寄せられるように集まり、雄大な交響曲を奏でていること...

極東から始まり、最後は西の果ての英国のサットン・フー。
その間を、敦煌、ホータン、トルファン、パミール、大宛、サマルカンド、ブハラ、そして全ての道はローマへ通ず、と繋いでいく。

始まりよし、企画よし。

しかし、しかし...残念ながらどんどん情報が薄くなっていく...

シルクロードの旅の過酷さや、村の人々の顔つき、生活様式の共通点、民族の衝突、自然のサイクル、宗教の伝達、先祖の話、国民国家という新しい思想、彼らがどこから来てどこへ去っていくのかまでを扱ったNHKの『シルクロード』とはぜんぜん深みが違う...




というわけで、展覧会の感想を述べるのはここでやめにして、わたしが感じたことを書こうと思う。


19世紀から20世紀初頭にかけて、西欧ではそれまで以上に、未知の世界への探検や冒険がさらに盛んになった。
シルクロードを本格的に調査したのもこのころだ。

そのことと、日本の1970年代から80年代にかけての海外への熱い視線には、いくつかの共通点があるのではないかと思ったのだ。

時代背景や社会的条件は異なるものの、西欧の探検・冒険活動と、日本の海外への関心の高まりは、経済的背景、知的好奇心、交通手段の発展、文化的影響、知識の普及など、共通する部分が多いのではないかと。



ガンダーラ石仏。
紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の東方遠征によって
ギリシャのヘレニズム文化がインド・イラン地域に伝わり、仏教美術と融合。
アレクサンダーという男子名は、いまだに彼の地ではポピュラーであるという。


例えば経済的背景。
19世紀〜の西欧は帝国主義と植民地主義の時代であり、探検や冒険は莫大な経済的利益をもたらし、研究活動は知識人としての名誉を確立する手段でもあった。
知識欲だけではなく、未開の地域を「発見」することによって、新しい資源や貿易ルートを開拓する意図は大きかったといえよう。
それは就労せずとも親族の年金で生活できる、豊かで若い知識人層という存在によっても支えられていた。

日本では1970年代後半の著しい経済成長によって生活水準が向上し、海外旅行や異国文化に対する関心が高まっていった。


また、産業革命以降の交通手段の急激な発展により、西欧の探検家の移動は世界中に広がっていった。

日本でも70年代以降、航空機の普及や旅行の自由化によって、海外旅行が身近になった。


その原動力はもちろんロマン主義と冒険精神である。
19世紀はロマン主義の影響で、「いまここではないどこか」に対する憧れ、個人の感情、想像力、自然への崇敬、内面的な自由、自己実現、神秘性などが時代のスピリットだった。

70年代以降の日本も全く同じだ。


またそういった外向きの時代が来るのかなあ...



「大使のホール」南壁。
シルクロードは、商人、宣教師、傭兵、難民、あらゆる種類の人々で賑わっていた。
地元の支配者を謁見する、遠い土地からの使節や、インドと唐王朝に関わるシーンを特徴としており、
ソグド人の世界観を伝える。7世紀 ウズベキスタン、サマルカンド。


大英博物館の『シルクロード』展に集結した見物人たちは、多民族社会ロンドンをまさにそのまま写した多様性を持っていた。

それは世界の隅々の文化と文明をウェッブのように繋ぐシルクロードそのものであり、中心はどこにもなく、コミュニケーション(交換)だけがある。

人間はコミュニケーション(交換)なしでは生き延びられないのである。
会話、愛情、物と物、親族、文化、知識、技術...
「会話を楽しむ 友情を育む 芸術を愛でる 愛を語る」そういった人間にふさわしい生きかたを可能にし、共存を支える政治にこそ最高善がある、とアリストテレスも言った。

近頃では、世界は極右化の傾向がある。
民族やグループを純化すれば純化するほどものごとはよくなる、という考えだ。

しかし、純化した世界では新しいものは生まれない。停滞して滅んでいくしかない。
交流と交換があってこそ新しいものは生まれる。

この展覧会を見て、再びそう思った。
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9月のクリスマス




年々早くなるクリスマス商戦、9月の三週目にはリバティ百貨店からクリスマス・ショップがオープンしたとメールが来ていたなあ...呆れましたよ。
とはいえ、クリスマスまであと2ヶ月! そう考えると早すぎもしないような気がする。

写真は週末のセルフリッジス百貨店。
まあお客さんはおられないようだったが。
観光客向けじゃない? と友達は言った。




道路一つ隔てたところの教会も、気のせいかクリスマス村の教会のように見えた...

ハレルヤ。

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l'opera




L'Opéra de Minuit、真夜中のオペラ。

オペラといっても総合舞台芸術のオペラではなく、フランス菓子のオペラ、真夜中のお茶タイム。


秋をイメージし、オペラを作成したのにお客さんに出し損ねた。

オペラ(<舞台の方ね)のシーズンも始まり、数週間前まで作っていた軽やかなフルーツのムース系のケーキよりも、濃いチョコレートとエスプレッソの苦味の効いたケーキが秋の夜長にふさわしいかなと。

ビスキュイ・ジョコンド(アーモンド・プードル入りのスポンジ)、アンビバージュ(エスプレッソのシロップ)、ガナッシュ(チョコレートのクリーム)、クレーム・オ・ブール・キャフェ(エスプレッソのバタークリーム)、グラサージュ・ショコラ(表面の艶々のチョコレート)を薄い層で重ねて作る、見た目も味もとても都会的でシックなお菓子。

かっこいいケーキといえばこれを思い出すかな、わたしは。


レシピにはさまざまあり、重ねる層がくっきりと分かれているレシピもあれば、溶け合うように馴染むように仕上げるレシピもある。わたしは断然後者が好みだ。


工程にはとても時間がかかるが、作るのは難しくはない。
ただ、最後、2センチx10・5センチに綺麗に切り分けるときに最も緊張する...ここで失敗したら元も子もない。




知り合いの家にある、ベーゼンドルファーのインペリアルの黒鍵のよう(と、自画自賛)。

ウィーン菓子じゃないけど!!



次の日のおやつの時間に。ライトによって雰囲気が全然違う...
ベルギーのおやつの時間は4時。


パリのオペラ・ガルニエの客席をイメージしてとか、オペラ・ガルニエ近くのカフェで考案されたとか、起源には諸説あり。

「オペラ」とは、イタリア語で「作品」、もとはラテン語のopus オプスであり、「仕事」「労働」「創作物」という意味を持つ。

やがて、芸術的要素(音楽、歌唱、演技、舞台装置など)を融合させた、総合舞台芸術「オペラ」を指すようになった。

「オペラ」という名前のケーキも、こうした「作品」や「芸術的な創作物」という意味合いが含まれていると解釈できるかもしれない。
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アリアドネーの糸


Bacchus and Ariadne, Titian 1520-1523, National Gallery, London



ロンドンのナショナル・ギャラリーは、セインズベリー・ウィングが改築中で、現在とても手狭な感じだ。

普段はセインズベリー・ウィングに展示されている作品、主にイタリアの中世からルネサンスにかけての最も華やかな作品群の大部分が母屋の方にかけられている。


この日は、ホックニーの作品2点が、ルネサンス初期の画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)の一点とともにキュレートされているのを見学に行ったのだが、ヴェネツィア派の部屋で足が止まった。

おお、これはわたしがこの夏に見たギリシャの自然そのものの姿ではないか、と。
この絵は何度も見たことがあるのに、なぜ今日に限ってこんなに強く迫ってくるのだろう?

大ティツィアーノが、生まれ育ったヴェネツィアの外に旅したという記録は少ない。
ましてやギリシャのナクソス島に行ったことはないだろう。

しかしこの偉大な芸術家が16世紀に描いたこの風景は、現代の、ギリシャを周遊したばかりのわたしと、ギリシャ神話の時代を何よりもしっかり繋ぐのである。アリアドネーの糸のように。


芸術とは何かというと、そういうものであろうと思う。
「もうどこにも存在しないもの」や「あったかもしれないもの」と、「いまだかつて存在しないもの」を先取りして提示するのである。

...


クレタ島のミノア文明の時代、クノッソス宮殿のラビリントス(迷宮)に閉じ込められた半人半牛の怪物ミノタウロスを成敗するため、テーセウスはラビリントスに入り込む。
これを助けたのがアリアドネーだったが、薄情なテーセウスはナクソス島でアリアドネーを捨てる。
テーセウスの乗った船が左端に消えていくのが見える。

2頭のチーターが引く戦車に乗って行列を率いるバッカスは、アリアドネーを海岸で見つけ、戦車から飛び降りる。
アリアドネーの上の青い空には、彼女の王冠を変えた星座コロナが描かれている。

アリアドネーはクレタ島の支配者ミノア王の娘、ということになっているが、もともとはミノア文明の古代クレタ島で崇拝されていた豊穣や植物に関連する女神であった可能性が示唆されている。

...




芸術は、「もうどこにも存在しないもの」や「あったかもしれないもの」と、「いまだかつて存在しないもの」を先取りして提示する。
そしてさらに対話を促すのか、と感じたのは、上にも書いたホックニーとピエロ・デラ・フランチェスカのキュレートを見たからだった。
アリアドネーの糸のように、途切れない対話。

ホックニーはナショナル・ギャラリーがお気に入りだったそう。




この2枚のホックニーの絵には、中央のピエロ・デラ・フランチェスカによる『キリストの洗礼』(1450年頃、ナショナル・ギャラリー蔵)のポスターが描かれている。
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ベルギー解放80周年




モエはロンドン?

という写真で始まる今日のオハナシ。


ブルージュで友達とランチで盛り上がっていたら、鼓笛隊の音色が聞こえてきた。
(ランチはL'Aperovino Wine & Tasty Tapas で。オーナーマダムが友達の友達でソムリエ。おすすめです)

わたしは大きな窓に向かって着席しており、窓の外を英国陸軍のグレナディア・ガーズがおもちゃの兵隊さんのように行進するのを見て、ブルージュの景色が一瞬で「ロンドン」に変わったと、目を丸くした。

それだけ、彼らのコスチュームにはインパクトがあるということだ。

グレナディア・ガーズ以外のどの軍の制服を見ても、どこの国の何隊かというのは、わたしにはわからないと思う。




どなたもご存知と思うが、特徴的な黒い帽子は「ベアスキン」Bearskin。
その名の通り、カナダ産の黒熊の毛皮で作られており、高さ約45センチもある。
もともとはナポレオン戦争時にグレナディア兵が着用していた帽子で、兵士をより大きく、より威圧的に見せるためのデザインだ。

威圧的というよりもコミカルだと思うのは、わたしがこれを平時にしか見たことがないからか。



その時食べていたL'Aperovino ランチのメイン・ディッシュ。
前菜はサーモンの刺身。


グレナディア・ガーズ(Grenadier Guards)は、イングランドの最も古い近衛歩兵連隊のひとつだ。

その起源は1656年、ピューリタン革命により大陸に亡命せざるをえなかったチャールズ王太子(後のチャールズ2世)が、亡命先のブルージュで自分の護衛部隊を設立したことによる。

チャールズ2世がブルージュに拠点を置いたのは、現代でも英国島から大陸へ海峡を渡ってすぐという地の利や、当時スペイン領ネーデルランドの一部であったブルージュが、自分を追放したイングランドの議会派政権とは距離を置いていたからだろう。

ピューリタン革命は、専制的な王権に対する議会の力を強化し、近代民主主義の基盤を築いた、一方で、宗教的・政治的な対立を激化させ、クロムウェルによる独裁的な統治をもたらした。

英国でフランス革命のような急激な革命が起こらなかったのは、すでにピューリタン革命があったからだと考える研究者もいる。



ブルージュの人気ショコラティエ、チョコレート・ラインのウインドウには
数トンのチョコレートで制作したカナダのシンボル、バッファローが登場して街の話題になっていた。
カナダ軍の兵士は、ベルギー解放で多くが犠牲になった。


最後になったが、この日9月12日にブルージュで行われたグレナディア・ガーズ音楽隊のパレードは、1944年のベルギー解放の80周年を記念している。


ベルギーは第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツに占領された。

1944年のノルマンディー上陸作戦が成功し、連合国軍が西ヨーロッパを解放していく過程で、同年9月にベルギーも解放された。
この解放作戦には、英国、アメリカ、カナダなどの連合軍が参加した。

まあ...戦争の悲惨さや犠牲を記憶するのは非常に大切とはいえ、外国軍がわが物顔で街を平和パレードするのはどうなのか。

平和の象徴が軍であるというのが、今の時代合わない、いや合わないと考えねばならない。

軍事による解決、軍事による平和よりも、別の次元のより平和的な解決、つまりは対話や協力を求めるべきと思うからだ。
とにかく、軍が「平和の名のもと」にパレードを行う趣旨には、わたしは両手をあげて賛成できない。

しかし軍事主義的な威圧感をも、グレナディア・ガーズの特徴的な制服と、コミカルなベアスキンが多少中和していると強く思う。
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