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Brugge Style
シフ卿とシューマン
ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホールで、Andras Schiff(以下アンドラーシュ・シフ)卿のシューマンを。
シューマンのピアノ協奏曲(イ短調 Op. 54)、感情の爆発やロマン的効果ではなく、構造的な明晰さと詩的な内省が際立った、いい意味で非常に簡素な演奏だった。
瞳キラキラなロマン的感情に溺れず、「感情という建物の骨格」を聞かせるような名演奏といえばいいか。
ロマン派の「遠くを夢見るような感覚」「儚さ」を誇張せずに表現し、詩的な沈黙や余白の美しさが明瞭だった。
夜に詩を詠むような、静かな美しさと知性。
意図されたように「室内楽的」。
シューマンの詩人としての側面と、構造感覚を際立たせた、というといいのかなあ。
しかもあの余裕。
うううむ、と唸ったわあ。
ちなみにおしゃべりはなし。
いつもならば、このために用意されたピアノの小話などが爆発するのになあ...
このピアノは、ロマン派の時代のもので、弦の張られ方が違うんだそうです...
前回、オックスフォードのバッハでもおしゃべりなかった...おしゃべり聞きたい(笑)。
ロイヤル・フェスティバル・ホールのバア、スカイロンは大好きだ。
近頃の安っぽく豪華さをてらったハコではない、50年代から60年代に建てたれた、質実剛健、機能性と簡素な美を重視したモダニズム建築である。
あ、ちょうどシフの演奏するシューマンみたいな!!!
バアも、ちょっとレトロな「大人な」雰囲気でよい。
客層も大人ばかりだ。
ついでに言うと、このあたりでサウス・バンク・センターを構成しているお隣のエリザベス・ホールは60年代の典型的なブルータリズム。
この界隈はテムズ川沿いにあり、眺めも抜群なのだが、ウィータールー駅からの周辺は大変荒れており(危険ではない)、もったいないなあと感じる。
もっと整備して、もっと文化的に居心地のいいエリアにして発信できるのに...
まあ、これが戦後のロンドンぽいのか。
Andras Schif
The Orchestra of the Age of Enlightenment
Schumann: Introduction and Allegro appassionato in G for piano & orchestra, Op.92
Mendelssohn: Overture; Intermezzo; Nocturne; Scherzo from A Midsummer Night's Dream
Schumann: Piano Concerto
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記憶の蓋がポンとあく
庭の黄菖蒲(ヨーロッパ黄菖蒲というらしい)に奇妙な虫がついている、と夫が言うので見に行ってみたら...
ううむ、この形状には覚えがある。
これは...これは...うううむ
「ヤゴ!」
ヤゴ、おそらく、子どものころによく見たものの、その後は何十年後の今日になるまで一度も思い出しもせず、使いもしなかった名詞のひとつだ。よくぞ覚えていた。
そういえば最近、水辺にはトンボがたくさん飛んでいるではないか!
これは抜け殻か、あるいはこれから孵化するんですよと夫に説明した。
夫はトンボを見ると天使を見たかのように喜ぶので、あまりなじみがないようだ。
庭を歩くと、100年ぶりに考えたり使ったりするのではというような言葉を突然思い出す。
葉っぱの形や、童謡や、神戸の山手の清流や、母の語った話や...
「これは見たことがあるぞ、いつか、いつだったか...」と。
原体験というのかしら、こういうの。
最近では、(黄菖蒲と同じような)菖蒲か杜若だと思い込んでいた剣状の葉っぱを指して、なぜこちらには花が咲かないのか庭師に尋ねた。
全然聞いたこともない英語の名前が返ってきた。
「猫のしっぽ」(<かわいい)だからですよ、と。
それは、それは、水辺の猫のしっぽとは、それはもしかして...「ガマ?!」
ガマなんかわたしが育った神戸では見たことがなかったが。
いつ穂をつけるのかしら。
夫に「因幡の白兎」の話をして聞かせた。
ポンとあくといえば、睡蓮の花も、早朝にポンと音を立ててあくそうですね...
白い蕾が水面に顔を出している。
楽しみ。
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広重ブルー
ロンドン、大英博物館で開催中のHiroshige 『歌川広重展』に浮き浮きと行ってきた。
浮世絵だけに(笑)。
前回もこのように書いた。
「数年前は『葛飾北斎』展が大盛況だったが、今回も大人気の模様。
浮世絵は江戸期には大衆文化の代表的メディアとして大人気を博したものの、明治維新以降は「過去の遺物」「下品な庶民趣味」とみなされ、日本国内では評価を落としていた。
その価値を再発見したのは、19世紀後半の欧米の知識人・芸術家である。
ヨーロッパのインテリは昔から日本文化が大好きなのである。」
展示の最終部分には、浮世絵の影響を大きく受けたゴッホが描いた、有名な模写モデルが展示してあった。
浮世絵は、「庶民の消費物」だったものが、再評価されていつしか「革新的な芸術表現」へ価値の次元を大きく変えた例であろう。
このプロセスは、芸術とは何か、誰が評価するのかということを考える点で重要だ。
わたしが特におもしろいと思ったのは、浮世絵に特徴的な構図、対象の省略と誇張、人物の記号化、色彩などである。
浮世絵の世界の切り取り方は、西洋の伝統的な「視点」や、絵画観を根底から揺さぶる。
ヨーロッパではルネサンス以降、遠近法によって「一点透視」を基盤とした世界の再現を試みてきた。
それは神や、デカルト的コギトの絶対的な視点が支配する世界である。
近代になってニーチェは「思考するのは『私』なのか? 思考そのものが生じているだけではないのか?」と、考えた。
つまり、思考する『私』という自我が、思考に先立って存在するという前提を疑ったのである。
むしろ「私」や「主体」は、後になって構成される「フィクション」にすぎないのではないか? と。
浮世絵には、このような思考する主体は登場しない。
まさに、まさに、何かが「浮き」生じるだけ、である。
風景を大胆な角度で斜めに切り取り、極端な近景(鳥、魚、橋の欄干、着物の柄など)を前景に大胆に配置し、かと思えば鳥や風の視点で風景を捉え、人の顔は記号化され...
「主体」の不在、である。
そうだ、日本においては、主体というものは前景化しないことが多い。
日本語は、主語がはっきりしない。
日本語では「肩が」凝るのである。
「寝癖が」つく。
「仕事が」舞い込む。
「縁が」ある。
何かが「浮き」生じるだけ。
主語をあえて明示せず、現象そのものが主体のように、自律的に起こっているかのように語られる。
これは英語的な世界からはとても考えられないことだ。
こうした方法によって、ゆるがない「私」が一点から見た世界というより、風や雨や光、季節の気配が通りすぎていく世界が現れる。
印象派のモネやドガが、のちのゴッホ魅せられたのは、この自我中心的思考からの解放であり、西洋美術が強烈に欲していた「視点」からの自由だったのではなかろうか、と思う。
わたしは周りの観者を観察していてそう思った。
さらに、省略と余白、誇張によって「浮く」ものが活写される。
浮世絵は、自然の細部すべてを描くのではなく、輪郭・陰影・色彩の抽象化と省略を通じて世界を再構成する。
これは「見えるもの」だけではなく、「見えないもの」をそのままにすることに価値を置く美学である。
上の作品のように、真っ白い余白 は深く冷たい雪である。
あるいは夏の夜の涼しい空気であり、波であり、時間や距離でさえある。
描けない音、無音でさえも現す。
この「間(ま)」の美学は 西洋にはない、独特の感覚であろう。
そして青、「広重ブルー」は、ベロ藍=ベルリンブルー。
当時ヨーロッパから伝来した化学染料であり、空気や時間、湿度や感情を染めるための色として用いたようだ。
黄昏の青、夜明け前の青、湿度の青、深さ遠さの青...単なる写実でなく、「心象風景」の色彩である。
白い余白や青色一色によって時間の流れ、距離、季節のうつろい、感情、音と沈黙、記憶の手触りまで描け、意味は常にズレ続け、決して一つに定まらないのだ。
浮世絵は、特権的な視点や言語の暴力性を抑制し、意味や解釈に決着をつけてしまうことをためらわせる。
「ヨーロッパのインテリは昔から日本文化が大好き」と上にも書いた。
インテリとはおそらく、自分の「あたりまえ」の視点を疑い、括弧に入れ、それを解体されることを快感に思える人々なのだろう。
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the return
去年の夏ギリシャのアテネで
The Return、ただの「帰還」ではなく、ザ・帰還、である。
それはモエのセンチメンタルなオックスフォード回帰か、ホメロスのオデュッセウスか、聖書の放蕩息子かジョセフか、浦島太郎か。
......
トロイ戦争をギリシャ側の勝利に導いた、知恵者・英雄オデュッセウスが、彼が統治する国イタカに『帰還』してからの話...
ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』が題材であることも、主演がレイフ・ファイアンズとジュリエット・ビノシュというわたし好みの豪華さからも、とっても楽しみにしていた英国での上演だったが、人気も評価も(不当に!)低いせいか、上映館が少ない。
映画The Return『帰還』(2024)は、はるばるオックスフォードのミニシアターに見に行った。
ホメロスのギリシャ叙事詩の終盤をテーマにしたThe Return『帰還』を見た後、アシュモレアン美術館の古代地中海世界コレクションを見学するというプランは普段に増してエキサイティングだった(写真は下の一枚だけだけど)。
この映画には、ゼウスもアテーナも、怪鳥サイレーンも一つ目の巨人ポリュぺモスも、絶世の美女ヘレネーもトロイを陥落させた木馬も出てこない。
古代ギリシャ人にとっての世界解釈の手段であった神々が、一瞬たりとも登場しないのだ。
つまり、ギリシャ神話的スペクタクルを排し、心理劇として再構築された異色の作品なのである。
わたしが最も惹かれた点を最初に書いておくとすれば、登場人物は幸も不幸も気まぐれな神々のせいにせず、自分たちで運命を引き受けようとするところ。
ただ、古代ギリシャ人は本当に内面を持たなかった、という説もある。
当時は「アイデンティティ」も「個人」という概念もなかったので、人間はそもそも「内面」を持たず、まるで神々の意思に従って動く人形のようであった(まあそれも内面と言えば内面だが、自分の意思に従って、とは考えなかったろう)という説だ。わたしはこの説にも説得力があると思う。
「あの男のことを語っておくれ、ムーサよ、多くの策にたけた男のことを。
トロイアの聖なる都を滅ぼしたあと、彼は長くさまよった...」
トロイア戦争をギリシャ側の勝利に導き、それから20年を経て帰還したオデュッセウスが、変わり果てた故郷、求婚者に囲まれた妻ペネローペ、成長した息子テレマコースと再会する姿を通じて、戦争の後遺症や、自責の念、バラバラになった家族の再構築といった現代的かつ人間的なテーマを描く。
それにもかかわらず、いや、それだからこそ、この作品の評価は非常に不当に低いと感じられる。
原因としてまず挙げられるのは、先ほども書いたように、「オデュッセウスの帰還」というテーマに対して、巨人との戦いや、妖女の誘惑、絶世の美女、誉高きヒーロー、豪華な宮殿、華麗な衣装、神々の加護といった神話的な要素を完全排除しているからだろう。
本作は、そうした神話的英雄冒険譚をすべて捨て去り、代わりに「帰還とは何か」「家族とは何か」「英雄とは戦後にも存在しうるのか」「PTSDを抱えた男が、帰る場所すら変わり果てていた現実と向き合うとは」といった問いを、抑制された演出で投げかけてくる。
20年かかった帰還の旅の間、オデュッセウスがどこで何をしていたかすら語られない。
原作では、オデュッセウスは、あちらの王女、こちらの女神と、艶福家でめちゃくちゃカラフルな冒険をしたことになっているのに。
予告編やポスターが「歴史大作」を連想させるような印象を与えていたことも、観客の期待と実際の作品との間にギャップを生み出し、低評価につながったのだろうか。
しかし、こうした作品こそ、時を経て再評価される可能性が高い。
人間の内面、言葉にならない表情の重さ、それらは一過性の娯楽とは異なる次元で、観る者の内面と共鳴する。
英雄神話を脱神話化し、身体を持ったひとりの「帰還者」としてオデュッセウスを描いた本作は、単なる古典の映像化ではなく、現代における「帰還」の意味を問い直す。
......
では、わたくしはこれから現代の地中海世界へ!
旅の途中、現地でもう一回この映画を見たいなあ...
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