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にちにち




近所のチェーン店で。
フランボワーズと生クリーム、ピスタチオのクリームの組み合わせのパン。




庭の薔薇、今年3サイクル目。




お天気がいいのでロンドンへ。

オーストラリアから服が届き、ナショナル・ギャラリーにカルロ・クリヴェッリが見に行きたくなったのだ。
どのあたりに関連があるのかといえばですねえ、ここ10年ほどオーストラリアのデザイナーに傾倒していて、箱を開けて、「ああ、わたしはキャンプがとても好きなのだ」と思ったの(笑)。
(キャンプは様式のほう。キャンプ・ファイヤーのキャンプじゃないよ・笑)!
キャンプな服だけでなく、カルロ・クリヴェッリも『白鳥の湖』も最高に好き。そうだ、クリヴェッリ見に行こう! と。こういうわけだ。

逆にフロベールやブラームスも最高に好きなのはなぜ。
(ジャンルに優劣があるのではないからだ、それは)




友達とおやつの時間...@マリルボーン。
しゃべりすぎでどんな味だったか記憶が薄い。

広州出身だという、かわいらしいウェイトレスさんとロンドンの食について話す...日本語で! 

生在蘇州、穿在杭州、食在広州、死在柳州。
子供の誕生を盛大に祝う蘇州で誕生し、杭州の上質な絹織物を身につけ、広州の美食を楽しみ、柳州の木材で作られた棺に入って死ぬ...という中国人理想の生き方。




夏の花。玄関が暗めなので白っぽい花を活けるのが好きだ。
夏は店頭の花はどれも満開だが仕方がない...




ロブション風のスープのパイ包み、焼けた。


にちにち。
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別の彼を追いかけて 軍靴の音が聞こえる世界で




Evgeny Kissin(以下、キーシン)のリサイタルへ。


キーシンは構造的な感情を表す。
音楽を「言語」として構築する、といえばいいのかな...


ロンドン・バービカンでの昨夜(6月25日)プログラム(下記)は、スタイルが際立っていた。

前半の最初にバッハのパルティータ2番、後半にショスタコーヴィチのソナタ2番と24の前奏曲とフーガから15番と24番。

彼のバッハは、強い打鍵とモニュメント風が気になって、どちらかというとわたしの好みではなかったが(キーシンのバッハに関しては毎回同じ感想を言っている)、後半にショスタコーヴィチを配置するなら、このプログラム構成でなくてはならなかったろう。

確立した形式(舞曲)、という制約の中で、どこまで美を刻むかという方向性だ。

また、ショスタコーヴィチの、「狂いゆく社会や個人が、ふとした瞬間に健全だった頃の記憶の断片を思い出しつつ、そのまま狂気に飲み込まれていく感じ」が、このご時世をよく表現していたと思う(ソナタ2番は第二次世界大戦に書かれた)。

ちなみに、ステージ上で政治的メッセージを述べることが多い彼が、今回は敢えて(だと思う)しなかったのは、彼の複雑なバックグラウンドによるものだろうか。
それを選曲で補うかたちかと。違うかな...

戦時下にあって「形式」が、人間の苦悩を支えきれない、そこを描くショスタコーヴィッチの、無限崩壊していくような内面の無秩序に、キーシンは秩序を与えているようだった。

右手が狂うと、左手が対抗する。
左手が狂いだすと、右手がそれを押し留めようとする。
和声が解決せずに浮遊してどこかに飛んでいってしまう。
やけっぱちで空虚。

そしてバッハとショスタコーヴィッチのその間を架けるようにショパンを置く...

他のピアニストが、技巧を見せつけるように超高速で弾くような曲でも、キーシンがよりずっと緩やかな速度でショパンを弾くのが気が遠のくくらい好きなのです...

間の取り方であふれんばかりに歌う。
この世のものは全て時間の中で起きては消え、起きては消えする。
しかしそれを一瞬とらえて一瞬とどめ、次の瞬間には無限の循環の中に返す、というイメージ...

法悦に近い。

「存在の主観外的な美を表現させることによって、私たちに自分の気分、情熱と悲哀、自分自身を忘れさせたがる」バッハと、苦悩に満ちて「外部にあるいっさいのものを忘れさせたがるかのような」ショスタコーヴィチの間にあって、ショパンは繋ぐのだ。

ショパンのいわゆる「抒情性」は完全コントロールされた抒情であり、構造と和声の上に咲いた大輪の花であり、極めてバッハ的であることがよっくわかった(ような気がして気持ちがよくなる、わたしは知ったかぶりのシロウトなのである)。




アンコールは2曲。
バッハ シチリアーノ
ショパン スケルツォ2番

狂おしいほど素晴らしかったです!


Johann Sebastian Bach Partita No 2
Frédéric Chopin Nocturne in C# minor Op 27, No 1
Nocturne in A-flat major Op 32, No 2
Scherzo No 4
-
Dmitri Shostakovich Piano Sonata No 2
Prelude and Fugue in D-Flat Major
Prelude and Fugue in D-Minor


......


以下、後日友達とのやりとりで書いたものも自分のために残しておく


わたしの話は与太ですが、バッハが完璧な「形式」を完成させ、ショスタコーヴィチが(第二次大戦下で)その「形式」を脱構築しようとしたという今回のプログラムの解釈には、自分でも一定の説得力があると思っています

キーシンほど知的な音楽家が、無意味にプログラムを組むとは考えにくいですし

今回のプログラムは「形式とその破壊は可能か」というテーマを持っているのでは、と


例えば、ダダイズムは第一次世界大戦に対する抵抗と、戦争がもたらしたニヒリズムを根底に持ち、既成の秩序や形式への否定・攻撃・破壊を標榜しました

世界の「無意味性」は当時の知識人にとって強迫観念だったんです

しかし、不思議なことに、第二次世界大戦が起こると、シュルレアリスムとともにダダは消滅します

戦争という現実の暴力は、ダダが目指した形式の破壊をはるかに超える暴力であり、ダダの「否定の形式の無力さ」を露わにしたのです

つまり、ダダは「形式の否定」を目指しながら、結局「別の形式」を作ってしまったにすぎなかったのです

「形式の否定の形式」は現実そのものの暴力の前に飲み込まれ、機能しなくなったというわけです

これが今、世界で起こっていることとも響き合っていると思いませんか


哲学でも、ハイデガーやサルトル...ほか、多くの思想家は「世界の根源的な無意味性」を意識しつつ、結局は「存在論的不安」(ハイデガー)、「歴史」(サルトル)といった「別の形式」=救いや解決の審級を裏口から引き入れてしまいました

彼らは絶対的な神を否定しながら、善悪を裁くさらに大きな視座を求めてしまったのです

それを哲学的自殺」と呼んだ人もいます(カミュとか)
超越した存在が人間世界を調整し救うなら、哲学は不要だからです

では、どう考えるべきか

人間がいかに無力で無能で、ずるくて、自分勝手で、いいことをしても報酬もなにもないとしても、人間しかいない世界で、人間は正しい判断を下せる

という希望につきると思います

「形式」「確実さ」「連続する進歩」ではなく、カタストロフの中で見捨てられたものに対し、神や秩序に調整を任せるのではなく、人間自身が責任を引き受け直すことです

この世界には正義の味方も神も不在なのです


わたしはショスタコーヴィチの音楽はそれ単独ではあまり楽しめませんが、バッハと組み合わされることで「哲学」として聴けます

完璧な「形式」のバッハと、形式内での脱構築の限界と美を問うショスタコーヴィチの対比です


その点、キーシンの演奏からは、彼自身が責任を持ってがっぷりと世界と取り組み、それでも「秩序を与えよう」とする誠実な姿(政治的にもね)が見え、とてもよかったです

そう、誠実さとは、世界と取り組む、最も大切な性質なのですよ!!
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彼を追いかけて 「確かなのは愛だけ」




オランダ、アムステルダムに来ている。

アムステルダムは、6月20日からの週末、その750歳を祝い、大規模な祝祭を開催した。

日曜日の午後3時までは市のリング(環状道路)の中に車で侵入できないというので、わたしたちはそれ以降に到着して...

日曜日夜のコンツェルトへボウ、Krystian Zimerman(以下、クリスティアン・ツィマーマン)のピアノ・リサイタルに馳せ参じるためだ。


今回も言いたいことはたくさんある。
そこで3つに分けて話すことにしよう。

(1)だけでもぜひお読みになってくださいっ! お願いっ!


(1)ツィマーマンのメッセージ。わたしは彼のコンサートがあると世界中どこにでも出かけるが、舞台で彼が観客に話しかけるのは珍しい。
(2)音楽が、時空を超える精神や、人類の歴史の軌跡のように感じられた。
(3)音響。




(1)。
後半、最後のシマノフスキーのヴァリエーションの前に、彼は Ladies and Gentlmen ...と英語で話し始めた。

「アムステルダムは市の750年記念を祝いました。めでたいことです。しかしこのすばらしい市で、今もうひとつのイベントが行われようとしています。NATOの会合です。現在の世界状況を鑑み、武器揃え、売買をしようというのです。
スペインは早々に、この会議に参加しない旨を発表しましたが、他の国々はどうでしょう?
みなさん、確かなのは愛だけです。」

大喝采だった。

そして自然とシマノフスキーは(愛で?)燃え上がり、熱気ある演奏(シマノフスキーはあの世で驚いているだろう)後も、スピーチと演奏に対しての拍手が鳴り止まなかったのはいうまでもない。


(2)。
(1)とつながっている。
ツィマーマンの演奏が始まると、最初のショパンで突然、「時間の絵巻物」を見ているように感じた...

ダンテが『神曲』の中で「高みから歴史を俯瞰」する「天上の視座」を得たというのはこういう感覚だったのでは? と。


ダンテは『神曲』で、その視座を地獄から天上へと上昇させる(恋愛や苦悩や英雄性など地上的なものから、次第に精神的・普遍的なものへと昇っていく)旅路を描いた。

最終的にダンテが得たのが「天上の視座=神の視点」であり、そこから宇宙と歴史の意味を俯瞰するのだが、わたしが一昨夜の音楽で感じた「世界を上から見るような感覚」は、ツィマーマンが奏でているのが、単なる音の連なりではなく、時空を超えた「秩序」だったからでは...

音楽家・ツィマーマンは「導き手として」まるでウェルギリウス(地獄と煉獄)やベアトリーチェ(天国)のように、演奏によって人を精神的高みへと運んでいってしまったのだった。


余談だが、ブラームスやシマノフスキーのような音楽には、近代人としての葛藤や苦悩、そして永遠への憧れが宿っているので、一部ゲーテの『ファウスト』の旅路も入っているな...

その欲望を「美」に昇華するツィマーマンの演奏は、ファウストが「永遠の女性性」によって最後に救済される瞬間のようでもある。

ああ、奇しくも、ツィマーマンがスピーチの最後を「確かなのは愛だけ」と結んだのは、『ファウスト』のラスト「永遠なる女性的なものが我らを高みに引く」そのものではないか。

美と愛だけが、人を地獄から引き上げるのだよ。


(3)。
先日から連続してツィマーマンによる同プログラムのリサイタルを聞く中で、やはりアムステルダムのコンツェルトへボウの音響は、ヨーロッパの他のホールと比べてもダントツでいいと感じた。

2週間前には、非常に音響のいいパリのフィルハーモニーでのリサイタルがあった。
こちらは現代の技術の粋を尽くした素晴らしいホールであるが、やはり19世紀に造られたコンツェルトへボウの音響には敵わない。

コンツェルトへボウは、たんに反響が優れているなどといった技術的な良し悪しの水準を超えて、音楽そのものが立体的な空間に生まれかわるような体験をもたらす。
これは、現代ホールの精密で透明な音響とはまったく異質である。

パリのフィルハーモニーのようなホールでは、音は非常に正確で精緻に聞こえる一方、コンツェルトヘボウでは音楽と建築が共に呼吸し、振動し、身体も一体化してしまう。
すくなくとも、ピアノソロのリサイタルで使用するにはコンツェルトへボウに軍配が上がるのかもしれない。

例えると、パリ・フィルハーモニーでは、音楽は現代の美術館の絵画のように、完璧な照明と温度管理がされ、作品はクリアで独立している。
が、コンツェルトヘボウで、音楽は古い教会に飾られた祭壇画のように、空間と光と歴史が一体となって、絵そのもの以上のものを生む、と言えばいいか。


なぜ現代の最先端の技術を尽くしたホールが19世紀のホールに敵わないのか...
クラシック音楽が、過去にすべての理想を実現してしまっていたのに似てはいまいか。

クラシック音楽が生きていた時代、その理想の響きが最も響く空間が、コンツェルトヘボウのようなホールだったのだ。


......


あと...
ブラームスのソナタ2番を弾く時は、彼はスタスタとステージを歩いて息もつかず鍵盤に飛び込むように演奏を始める常なのだが、昨夜はコンツェルトへボウの階段を2、3段ぴょんと飛び降りて鍵盤に飛び込んだ...若きブラームスの勢いに似つかわしかった。


ロンドンから来ていた友達と会場で会えずじまいだった(わたしの電話が始終フライト・モードのままだったから!)が、終了後、語り合いたかったなあ。


11月には日本でも公演が決定しているとピアノ友達が。
わたしは絶対に参ります。みなさまもぜひぜひ。


Chopin Nocturne in Fis (uit Trois Nocturnes, op. 15)
Chopin Nocturne in Es, op. 55, nr. 2
Chopin Nocturne in E (uit Deux nocturnes, op. 62)

Brahms Sonate nr. 2 in fis, op. 2

-

Debussy Estampes, L. 100

Szymanowski Variaties op een Pools thema in b, op. 10, M. 10


......

以下、英語版。

(1)
Before launching into the final piece—the Szymanowski Variations—Zimerman suddenly addressed the audience in English:

“Ladies and Gentlemen…
Amsterdam has just celebrated its 750th anniversary. What a wonderful occasion. But now, another event is about to take place in this beautiful city: the NATO summit.
In light of the current global situation, they gather to align their weapons, to negotiate arms deals.
Spain has already announced it will not participate. What about the others?
One thing is certain: only love is real.”
A storm of applause followed.

And then, as if inflamed by that very love, Szymanowski's music burst into life. His performance radiated such passion—Szymanowski himself must have been stunned in the afterlife.
Needless to say, the applause did not cease even after the final note, in response not only to the extraordinary playing, but also to the speech that had ignited it.

(2)
This connects directly to the previous moment.

As soon as Zimerman began his program—with the first Chopin—I suddenly felt as though I were watching a great scroll of time unfurl before me...

Was this the very sensation Dante must have experienced when he gained his “celestial vantage point,” from which he surveyed history in The Divine Comedy?

Dante, in his epic, describes a journey from Hell to Heaven—a path that moves from earthly matters like love, suffering, and heroism toward increasingly spiritual and universal truths.
Ultimately, Dante attains the “divine perspective”—the viewpoint of God Himself—from which he gazes upon the universe and understands the meaning of history.

The sensation I felt during Zimerman’s recital the night before last—that sense of viewing the world from above—may have stemmed from the fact that what Zimerman was playing wasn’t merely a sequence of notes. It was order, transcending time and space.

As a musician, Zimerman became a kind of guide—like Virgil in Hell and Purgatory, or Beatrice in Heaven—leading the listener to ever greater spiritual heights through his performance.

As an aside: the music of Brahms and Szymanowski contains the anguish, inner conflict, and longing for eternity that so often characterize the modern soul. In that sense, there’s something of Goethe’s Faust in their journeys as well.

And when Zimerman sublimates such yearning into beauty, his performance becomes a moment of salvation—just like Faust, who is ultimately redeemed by “the Eternal Feminine.”

Indeed, wasn’t it deeply symbolic that Zimerman concluded his speech with the words, “Only love is real”?
That line echoes perfectly the final words of Faust:

“The Eternal Feminine draws us onward.”
Only beauty and love have the power to lift the human soul out of hell.

(3)
Having now heard this same program by Zimerman several times in recent days, I’m convinced: the acoustics of the Concertgebouw in Amsterdam are second to none—even compared to other major concert halls in Europe.

Two weeks ago, I attended a recital in the Philharmonie de Paris, a superb modern hall whose acoustics reflect the pinnacle of contemporary technology.
And yet, it still cannot rival the 19th-century Concertgebouw.

The Concertgebouw doesn’t merely boast superior reverberation; it transcends technical parameters altogether. It offers the uncanny experience of music reconstituting itself into a three-dimensional space—something altogether different from the pristine transparency of modern halls.

In the Philharmonie, sound is impeccably clear and precise. But in the Concertgebouw, music and architecture breathe together, vibrate together—and even one’s own body becomes part of that union.
At least for solo piano recitals, the Concertgebouw may well have the edge.

If I were to draw a comparison:
In a hall like the Philharmonie, music resembles a painting in a modern museum—displayed under perfect lighting and temperature control, clear and self-contained.
But in the Concertgebouw, music feels like an altarpiece in an old church—merged with the space, the light, and the layers of history. It becomes something more than the work itself.

Why is it that even with all the cutting-edge technology of today, modern concert halls still cannot surpass a 19th-century one?
Perhaps it’s because classical music itself had already realized all its ideals in the past.

The era in which classical music was truly alive had also created the acoustic spaces best suited for its ideals—spaces like the Concertgebouw.

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彼を追いかけて パリ特別編




南イタリア編は前回の一回しか書いていないのに! 
そして書きたいことは山のようにあるのに!

すでにモエはその足でパリへ。






彼を追いかけてっ。

わたしはブラームスを愛している。
そしてわたしはKrystian Zimerman (以下、ツィマーマン)をも愛している。
彼の数少ないリサイタルがあるとなると世界中追いかけていく。

今回は「彼を追いかけて」も特別編、なんといっても東京から来欧中の日本の友人夫妻とパリで一緒!

公演後、ピアノ友達と語り合える幸せよ。彼女たちの泊まっているホテルのバアで閉店まで。




このところツィーマーマンが取り憑かれたように弾きに弾きまくり、どんどん霊的な磨きがかかっていたショパンのピアノソナタの代わり、ブラームスのピアノ・ソナタ2番!

ベートーヴェンを意識しつつ、すでに「ブラームスらしさ」がある、若き日の作品。

若き日の巨匠の、後年の深い内省性の予兆がすでに見られ、真剣そのもの、一投入魂。悲劇的でヒロイック、濃い。

しかしそれだけではない、深く重厚な調和性はただただ、すでに成熟した青年の趣だ。
若い時から「いぶし銀」なのね...




ツィマーマンは、自分自身が若き日にすでに完璧な録音を残しているにもかかわらず、ずっと年月が経ってからまたそれに取り組むというのは相当覚悟がいるのでは...プロにとってはそのようなものではないのかもしれないが。

また、こういう巨匠若き日の作品を、老成した最高のピアニストが演奏するというのは、作品をある意味で「再完成させる」喜びがあるのではないか(そして聴く側にも)と感じた。

なにか、そこに芸術の真髄があるのでは、とさえ。




よく言われる、ブラームスの若さゆえの過剰さ(わたしはそうは思わないけれど)、構造の妙と複雑さを、ツィマーマンの演奏は見事に扱い、補い...いや、再創造していると言っても過言ではなかった。

響きの重さ、完璧な音の配合、絶妙なバランスと濁らない和音処理、光を透過させ、ヘタをすると「うるさい!」と感じられるに違いない場所を美しく乗り越えていく。

呼吸を与え、語るべきことと沈黙すべきことを峻別する。
崇高。

精神的な「余白」と「陰翳」を意図的に作り出すところには、若くして「すでに人生の裏面を知ってしまった魂」に語らせる、とでもいえばよろしいか。
これは緻密な解釈力と感性の豊かさがなければ不可能であろう。


ドビュッシーも、シマノフシキーも、最近と同じプログラムだが、今までにないほど熱い演奏だった。そしてパリの観衆もめちゃくちゃ熱かった。


次回はアムステルダムにも参ります!


Chopin
Nocturne op. 15, n° 2
Nocturne op. 55, n°2
Nocturne op. 62, n°2

Brahms
Sonate en fa dièse mineur op. 2

Debussy
Estampes

Szymanowski
Variations sur un thème folklorique polonais op. 10
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シフ卿とシューマン




ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホールで、Andras Schiff(以下アンドラーシュ・シフ)卿のシューマンを。

シューマンのピアノ協奏曲(イ短調 Op. 54)、感情の爆発やロマン的効果ではなく、構造的な明晰さと詩的な内省が際立った、いい意味で非常に簡素な演奏だった。

瞳キラキラなロマン的感情に溺れず、「感情という建物の骨格」を聞かせるような名演奏といえばいいか。


ロマン派の「遠くを夢見るような感覚」「儚さ」を誇張せずに表現し、詩的な沈黙や余白の美しさが明瞭だった。

夜に詩を詠むような、静かな美しさと知性。
意図されたように「室内楽的」。

シューマンの詩人としての側面と、構造感覚を際立たせた、というといいのかなあ。
しかもあの余裕。
うううむ、と唸ったわあ。


ちなみにおしゃべりはなし。
いつもならば、このために用意されたピアノの小話などが爆発するのになあ...
このピアノは、ロマン派の時代のもので、弦の張られ方が違うんだそうです...

前回、オックスフォードのバッハでもおしゃべりなかった...おしゃべり聞きたい(笑)。




ロイヤル・フェスティバル・ホールのバア、スカイロンは大好きだ。
近頃の安っぽく豪華さをてらったハコではない、50年代から60年代に建てたれた、質実剛健、機能性と簡素な美を重視したモダニズム建築である。

あ、ちょうどシフの演奏するシューマンみたいな!!!

バアも、ちょっとレトロな「大人な」雰囲気でよい。
客層も大人ばかりだ。


ついでに言うと、このあたりでサウス・バンク・センターを構成しているお隣のエリザベス・ホールは60年代の典型的なブルータリズム。
この界隈はテムズ川沿いにあり、眺めも抜群なのだが、ウィータールー駅からの周辺は大変荒れており(危険ではない)、もったいないなあと感じる。
もっと整備して、もっと文化的に居心地のいいエリアにして発信できるのに...

まあ、これが戦後のロンドンぽいのか。


Andras Schif
The Orchestra of the Age of Enlightenment

Schumann: Introduction and Allegro appassionato in G for piano & orchestra, Op.92
Mendelssohn: Overture; Intermezzo; Nocturne; Scherzo from A Midsummer Night's Dream
Schumann: Piano Concerto
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