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Brugge Style
黄金の騎士
今年は雪が多い。
ブルージュは夏涼しく冬暖かい気候である。平常の天気のブルージュから90キロ運転して内陸のブラッセルに到着したら大雪だった...ということは今年すでに3回目だ。
今朝もそうだった。
不運なことに愛車がガレージに2週間入院中で、代車のドイツ車のハンドルの存在の耐えられない軽さに不安を覚えながら高速道路でブラッセル入市を果たしたまでは良かった。
住宅街の4車線ではもうブレーキがほとんどいうことを聞かず、メーター脇に出るおどけた「!」のサインが不謹慎だと突っ込みながら前進を続ける...
自動車はフルで保険を掛けてもらったから、多少の痛みが生じたとしても大丈夫だし、もし遭難したとしたらわたくしのこの12センチヒールのブーツだけが問題、とか思いながら。
案の定、目的地手前の脇道(登り坂)はスピード軽減の凸凹を越えられない自動車で渋滞していた。
そしてわたしの目の前の比較的大きな車2台が腰を左右に大きく振りつつ、積雪を飛ばしつつ、とうとう力尽きてしまったのだ。
ええっどどどどうなるの?!
と思っていたら、後続車から続々と男性が登場。
彼らが申し合わせたかのように後ろを押したら、車はすんなり坂道を上がって行った。
こんな時ほど男性が黄金の鎧を纏った騎士に見えることはない。
中には日本人男性もおられ、
「タイヤ、替えてますか?」
と声をかけてくれて、惚れそうになりましたね。
わたしはたいがいのことが起きても自力で対処できるし、問題解決能力はある方だと思う。
でも、やっぱり女性の端くれとしては、体力精神力に優れたナイトに救われたい、また救うチャンスを与えたい、尊敬したい、とどこかで願っている訳ですよ、気持ち悪いかもしれないけど(笑)。
社会的な権利や利益の分配やなどに不公平があったら、わたしはフェミニストの威を借ることにやぶさかでないが、騎士が登場できるチャンスがある場面においては、軽々と活躍の場を男性に譲りたい、と思っているわけである。
男の方、(それからフェミニストの方も)怒らないでくれたまえね。
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a confirmed bachelor
夫の○友、アメリカ人、40前後と書いておこう。
モテモテの彼が、ロンドン在住のひとまわり若い女性と懇ろになったのは2年ほど前だったか。
アメリカとイギリスの遠距離関係とは言え、ロマンスの相手を彼女1人に絞った様子だったので、子ども好き(かっこいい男が子ども好きであるとは、なんと女性にアピールするセクシーさだろうか)な彼のことだし、彼女と結婚するかも、などとわれわれ夫婦は非常に夫婦らしい会話を交わしていた。
ところが、先日、彼は特別な事情がないにもかかわらず年始年末を彼女と過ごさなかったと言う。
ううむ、空には黒い雲がかかっているのか。
これはわたしの妄想にすぎないのだが、
おそらく彼は、象徴的な話として、スポーツカーに乗れなくなることを恐れている。
チャイルドシートやお尻ふきが搭載され、童謡が流れる車内を恐れている。
ボストンとマイアミのバチュラーパッドが郊外の一軒家になり
美女と深夜のバアで飲む代わりに、夜泣きする赤子にミルクを飲ませる
想像するだけだったらわたしだっていやだよ。
夜の美女と夜泣きの赤子、このギャップを目をつぶって飛び越えることができる衝動っていったい何なんでしょうね。
人によりけり、また同じ人でもタイミングによっては条件も変わってくるだろうが、このケースで興味深いのは、どの女も「私こそが彼を変えられる!」と思っていることである。
以前、彼に潜在的ミソジニーを指摘したのはこのわたしであり(笑)、そういうことも鑑み、彼は決して飛べないと思う。彼のスポーツカーは、あれですよ、一種のバットモービル*なわけだし。
だからわたしとしては彼には天晴れで遊び人としての美学を貫いて欲しい。
*映画の中でもバットモービルは飛べないのです。
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「女性」の「美」
「日本の男性は女性を見る時、目や胸のサイズなどパーツに関心をよせる人が多いが、米国の男性は女性の全体のバランスや雰囲気に関心を持つ人が多い。」
もうずいぶん前、このような内容の記事に吸い寄せられた。
記事の真偽のほどは別にして、経験から、なるほどそうであるかもしれないと思った。
おフランスでは女性が女性として遇される寿命が長い(その気になれば一生か)と言われ、フランス文化の精粋のようにもてはやされるのは周知の通りだ。
そこで、フランス女性が「一生女」であり続けられるのは、男性が(つまり社会が)女性を全体のバランスや雰囲気で見るからだ、という仮説を立ててみた。
これもわたしの個人的な経験に基づいた発言にすぎないが、フランスを含めたこの辺りの文化においては、生まれつきの顔立ちの美しさよりも、持てるものをいかにプレゼンテーションするかという達成度に対して「美しい」という賛辞を浴びせることの方が一般的だと思う。
そういう風に、全体の雰囲気で女性を見れば、目の大きさ、肌の色、身体のサイズ、年令、などのパーツは重要あまりでなくなってくる。
反対にクローズ・アップされてくるのは、微笑みの美しさ、滲む人間性の深み、こなれた動作、知性、気品、バランス感覚など、全体が醸し出す、加齢と共に磨きあげてゆける魅力であるのは自然な成り行きだろう。
こういう類いの魅力を美の一つの形として賞賛するのが仏文化なので、女性は女性として待遇される寿命が長い(もちろんそのカウンターパートとしてのロリータ文化も根強いわけだが)。
強弁すぎるだろうか(笑)?
これは裏返すと現代の日本女性にあてはまることなのかもしれない。
上記のわたしの駄文が当たらざるとも遠からずとすれば、日本女性は社会の中で美をパーツごとに見られる習慣がついているので、自分自身を観察する時にもパーツごとにしか見られない。
ゆえに全体を鳥瞰する美意識が発達せず、バランス(またはアンバランスとしてのバランス)の美、雰囲気の美、としては中途半端な「おばさんタイプ」「万年子供タイプ」「みんな同じ髪型」がどの世代にも多くなる...
どうだろう。
あ、断っておく。わたしは日本人の一部の女性の美しさは世界最高レベルだと思っている。
フランス女性の美しいのも一部。どの社会にも美しい女というのはいる。
よく女性誌などで、日本人女性はフランス女性を見習うように煽っているが、完全に的外れなお説教だと思う。
まあつまり結局は、われわれが参加しているゲームのルールが社会によって違う、ということなんですけど。
最後に...わが祖母の教え。
外面も内面も美しく努めるのは自分の家の内だけにする。
そして外出時はのびのび自然のままに振る舞う。
つまり外出時に美しくありたいなら普段から身も心も常に美しく生きるしかないのである。
この内容は6年前に書いたものを大幅に加筆修正したものです。
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宇宙人であるとはどのようなことか
わたしはサイエンスフィクション映画(他、娯楽一般)には興味がない。
たとえばスター・トレックやスター・ウォーズには「宇宙人」が大勢出てくるが、彼らがあきれるほど「地球人」と同じ趣味趣向性癖欲望を持っていることが全く理解できないのである*。
と、いうのが理由の一つ。
小学生の頃、教室の備品(黒板とか、机とか)になりきって作文を書くというお題が出、子どもとしては作文を書くことを比較的得意としていたにもかかわらず、完全に「書くことがない」という不調に陥ってしまった記憶がある。
「私は教室の椅子です。子どもが私に座って勉強してくれるのが私の誇りです...」などという出だしが推奨されたわけだが、しかしわたしは「なんで椅子が人間のお母さんみたいなことを言うのん?!そんなわけないやんか」と、強情を張り、そういうことをとつとつと書いたら「もっと素直に書いてみましょう」と、評価された。
なぜこんなことを書いているのかと言うと...
先日、王立美術館で、宗教画に描かれたエルサレムの街が中央ヨーロッパの街そのものであったり、キリストが北方のコーカソイド型であったり、聖母マリアの衣装が中世の王侯貴族のそれであったりするような「不思議」をたくさん見たからかもしれない。これを「メシア的時間」と言うのか。
こういう...人間の無邪気な独善性の光と陰にあらためて驚いたわけです。
人間の想像力は神業に近い飛躍もすることがあるが、一方で何かを表現するときには必ず(人間であるが故の)制限があり、でもその制限があるからこそ表現が可能であるという...
宇宙人であるとはどのようなことなのでしょうね。
あなたがあなたであるとはどのようなことなのでしょうね。わたしには想像もできません(いや、ちょっとはできるが)。
*もちろんわたくしも「訓練された鑑賞者」であるからして、サイエンスフィクションの中では宇宙人とて英語を流暢に話す、などという約束事は息をするように受け入れられる。
その一方、壮大なセットや特殊メイクを施して大掛かりなサイエンスフィクションを背景にする必要があるほど宇宙では未知のドラマが展開されているわけでもなし、話の筋はソープオペラと変わらへんでしょ?!ということが言いたかったりするのである。
こういうことをサイエンスフォクション好きの夫に言うと、気の毒そうな目で見られる(笑)。
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