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Brugge Style
タッセルと...夢を買う人
わたしが好きなモチーフはタッセルと竹である。
例えばフォックスの傘などは竹のハンドルにタッセルがついているから、これ以上にわたしの好みに合う品ものはない。
初めからタッセル付きで売られているものは無闇に欲しくなるし、手持ちの品にも強引につける。鍵はもちろん、ランプにも、ドアハンドルにもつける。他に何かつけられるものがあるかな?と思いながら家のモノをながめているくらいだ。
最近、ろうそく消しのハンドルにもつけられるではないかと気づき、近所の手芸屋(街に一件のモノポリーである)を探したが取り扱いがないので、ネットで検索してみた。そうしたらタッセルは手作りできるということが分かった。
うむ、手芸でものを作るという行為を日常に組み込んでいないため、考えてみたこともなかった。
自分で作れば羽根製や革製、サイズや色なども思いのままということだ...早速本を取り寄せることにする。
本を手にして満足して終わる、ということになりそうだが(例えば日本刺繍をするのが長年の夢で、本とキットを取り寄せてそのままになっている)夢を買う、ということで。
夢を買う...か。わたしは夢を買ってばかりいるような気がする。
先日、娘に「大人はどうして遊ばないの?」と聞かれた時、「基本的に子どもの遊びは大人のすることの模倣だからで、だから大人は遊ぶ必要がないのです」と答えたが、子どもの遊びとは別の種類の遊びはあるわけで、大人の遊びとはつまり「夢を買うこと」なのかもしれない。
手芸材料を揃えることから、モナコで快楽に溺れたり、ネットで株を買ったりすることまでスケールはいろいろあるけど。
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こんかつちゅう
「こんかつちゅう」
と聞いて、何のことか分からなかったのはわたしだけではないはずだ(笑)。
ネットのおかげで時差はずいぶん短縮されたが、日々泡のように生まれては短命をまっとうする「流行語」にぴったりついていくのは外で暮らしていると難しい。
同年代の「こんかつちゅう」の人と話していて、
「どういう人がいいんでしょうかねえ」
と、聞くとはなしに聞かれた。
わたしも大人であるから一所懸命に考えて
「今後も変わる(成長する)可能性があるような人がいいんじゃない?」
と言った。
既婚者のわたしから見て素敵な人は結構いる。
でも「こんかつちゅう」の友だちが探しているような完璧な人はなかなかいないらしい。だったら今後「完璧」の方向へ育ちそうな人がいたらそれが十分条件であろう。
つまり成長しそうな人とは、ルソーじゃないけど
「人間は知ることが少なければ少ないほど、知っていることが多いと思うものです」
に倣い
「人間知っていることが多ければ多いほど、知っていることが少ないと思っている」ような人のことで、そういう男を金のわらじをはいても探すべし、と思う。
わたしは余裕のある男が好きだが、余裕というのは意外と「知っていることが多いと思っている人」よりも、「知っていることが少ないと思っている人」からにじみ出るものではないだろうか。
まあ、言うは安しですよ。
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1人でお茶
マルクト広場近くのティールームを訪れた。
店内は混み合っていて、窓際にひとつだけ空いているテーブルがあった。
これが日本だったら、きれいでおいしいケーキと、おしゃれでかわいい女の子たちと、その笑いさざめく声で店内は花が咲いたようであるのだ。
...ブルージュでは喫茶店は老人のものである。
日本に住んでいた頃は、友だちとしゃべりたおす目的では当然のこと、待ち合わせや時間つぶし、買ったばかりの本を早速読むため、締め切り間近のレポートを仕上げるため、スケジュールを立てるため...などで確実に毎日どこかでお茶をしていた。
「喫茶店に1人で入れない」人がいるということを聞いて驚いたことがあるが、わたしにとっては喫茶店は、場合によっては家よりくつろげる所なのである。
だが、ブルージュの女の子たちは、女の子同士のおしゃべりやケーキ、ましてや読書目的で1人で喫茶店なぞには行かない。若いカップルも同じである。
平日の昼過ぎからお茶を飲んでいるのは老人カップル、あるいは50前後からそれ以上の女性たち、と相場が決まっている。
だからといってわたしは喫茶店ライフを楽しむことはやめられないのだが、自然と1人で行くことはなくなった。
わたしが1人で気兼ねなく入れるのはブラッセル規模以上の、匿名でいられる(ような気がする)都市で、である。
ブラッセルくらいになると、1人で喫茶を楽しんでいるような人も、お茶をしている若めの女性カップルも普通に見かける。喫茶店の客層やタイプは人口密度や繁華度によって決まってくるのだろう。「おひとりさま」というライフスタイルが可能なのは、高度に都市化/情報化された社会においてだけであるのだ。
ひょっとしたら日本でもブルージュ程度の街では女の子同士がおしゃれしてケーキを食べていたり、1人で来店して本を読む人がいることもないのかもしれない。
そういう街の女の子(わたしが女の子を自称するのはあつかましいが)に親近感。N○Kの「みんなのうた」の歌とアニメーションのような親近感。
そんなことを考えながらの午後のお茶であった。
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レミニセンス
(以下、中年の回想録です。すなわちつまらないです。)
先日、須磨の噴水パレスと一緒に、舞子の海岸沿いにあった伝説のカフェバア、ウェザーリポートのことを書いたら、同年代の方々からメールを頂いた。
同じ釜の飯(笑)を食ったことがうれしい。
ご存知ない方にはどう説明していいのか分からない。
例えば「片岡義男的」とか「松任谷由実の歌がぴったり」などと評した人もいるが、わたしに言わせればあの当時の東京的なるものと神戸的なるものは絶対に違う。わたせせいぞうチック(神戸出身であるだけに?)くらいだろうか、許容できるのは。
若者にも可処分所得と情報が回るようになり、一方には昔からの富裕層の子女がいて、アメリカ的な自由さへの憧れと過去の神戸のおしゃれさと、速い時流の中どんどんおもしろくなって行きそうな明日を確信しながらも、ふと立ち止まって海を眺める、というような。
それで今すぐにでも車を運転して実家から西に向けて車を走らせたい気分になったのだが(助手席には当時いつも一緒に遊んでいたガールフレンドを乗せて)、「ウェザーリポートのいい時期を知っている人は、あの辺には戻らない方がいい」と優しい忠告を受けた。
ああ、そういうことか...
しかし、あきらめきれずに簡易タイムマシンを操縦したら、埋め立て地になったとか、チェーン店ができているとか、塩屋異人館すらもなくなったとか、90年代ウェザーリポートがあまりにも大衆的になった後によく行ったオフショアというカフェレストランももうないとか...
そういう現実が次々に飛び出して来たので忠告通り思い出はしまっておくことにした。
などと美しいことを言いながら、もしこの先わたしに巨万の富ができたら、あの辺り一帯を再開発して、わたしたちの思い出に残るおとぎ話の海岸線を再現させるのだがと鼻息も荒い。
おまけの小道具
コロナビール
無国籍料理
シャネルのバッグ
セーラム・ライト
教会の鐘の音
長い髪
山手のガラス張りの大きなリビングのある西洋家屋、庭のプール
スープラ
やさしくておしゃれで礼儀正しい男の子たち
入道雲のかかった夏の青空
神戸。
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詩集
娘からバレンタインのプレゼントをもらった。
萩原朔太郎の詩集だった。
わたしは朔太郎のファンではない。いや、全然。
が、娘は本の装丁や、内容の漢字とひらがなの混合具合、余白の具合などを見て、「ママはきっとこの本が好きに違いない」と思ったのだそうだ。
9歳にしては幼いのか。
あるいはわたしの好きそうなものをさすがによく知っている、と言うべきか。
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
を朗読してやったら、「ママ、いつもパリに行ってるじゃないですか」とつっこまれた。
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