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仏の掌の上に咲く世界










この世は仏の手のひらの上で咲く花


というとてつもなく美しい表現を記憶している。

いつどこで見聞きしたのか分からないが、そして今もネットで調べてみたのだが、典拠は不明。



特別な品でもないこのオブジェに大変惹かれたのは、店の隅に追いやられてしかも赤札が付いているのを見た瞬間、仏の手のひらの上で咲いている花のイメージがよみがえってきたからだ。


普段は生命線上の四角い金箔のところに季節の花をおいて飾っている(今日は旅行前で家に花がないのだ)。
すぐ枯れるのが無常...まるでわれわれの世のように。


なるほど、この世である掌上の花を見つめているわたしはさしずめブラフマンか!(笑)



そういえば何年か前、手のひらから金を出すというインドの修行僧が話題になりましたね...


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子育てガイド




学校から定期的に配布されている「保護者への子育てガイド冊子」に、親の悩みに答えます!という威勢のいい特集があった。


良いテスト結果に対してお小遣いを与えるのは効果があるか

テスト結果が悪かったときはどうすればよいか

いつもテストの点が良い子にはどのような誉め方をするべきか

家庭学習をさせるには

忘れ物対策

などなど。

親の悩みは万国共通のようです。


ついに子育てのゾハールが明かされる日が来たか!とページを繰る手も急いたが、やはり目新しいことは何一つ書かれていなかった。親なら誰でも知っているような情報ばかりだ。

「怒ったり罰を与えても効果は全くありません。改善すべき点は何なのか、本人や担任と相談して、できたところを誉め、次回もっとがんばるように励ましましょう」
「よい結果に金銭で報いても効果はありません。ほどほどにしましょう。」
「忘れ物がないかどうか、常に声をかけてやりましょう」

こんな回答でいいんだったら、次回はわたしのところへインタビューに来てくれまいか。うん、無料にしとくよ。


問題は、子どもが好ましくないことをやらかした時にどう対応すればいいかを親が知らない、というところにあるのではなく、心理学者の先生方が推奨するような理想的な子育てはわれわれも情報としてよっく知っているけれども、実際現場で理想的な対応をすることは大変難しいことがある、というところにある。

そこらを教えてくれる先生はいらっしゃいませんか。


とは言え、子どもが好ましくないことXをしたときにはZという対応、Yという失敗をしたときはWというフォロー、という石板に刻まれた対応表が存在するのならば、親も子どもも決して成長しないのだ、ということくらいは未熟なわたしにでも分かる。

例えば一般的な進学塾で人間的な成長を誰も期待しないのは*、あそこが効率的にスコアを取ることのみを教えるところだからで(教習所も同じようなところと言えるだろう)、まさにシステムとしては「XにはZという対応」を教えることを「売り物」にしている。マニュアル本を人生座右の書にする人はいないだろう。

子どもは「なぜ親はこんなにも怒るのか」「なぜこんなことをしなければいけないのか」、親は「なぜ子はこんなこともできないのか」「なぜ言うことを聞かないのか」と悩む。それぞれが悩み分からなさを抱えながら、個人として成長していく過程こそが人間の厚みになるのだ。自分の人間性に厚みを付ける以外、人生にどんな意味があるというのか。


中東某国に住んでいたとき、腕にユダヤ人収容所の囚人番号の入れ墨があるユダヤ人がよく言っていたものだ。
「われわれ民族は、神から、決して人間理解の及ばない試練だけを与えられている。それはなぜか?理解が及ぶ極限まで成長せよ、というのが神からのメッセージなのだ」と。
おお、だからあなたがたは...あっ、いやいや...ユダヤ人優秀説はこのフレーズから一端を説明できる、と納得したものだった。

...こんなことを言うは安しなのだ。



理想的対応をするのが難しいと悩んでいるのはわたしだけで、世間の皆様は湖のように澄み切った穏やかな心と、山の世に雄大な度量をそなえた大人なのだろうか。

もっと成長しなければ。できたら試練抜きで...と、お茶をすすりながらつぶやくのである(笑)。




*世の中の進学塾には特殊な例もあるだろう。実際わたしが高校生のときに出会った予備校の英語講師はユニークな男だった。



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wasara









wasaraという紙製の食器。


とてもセンスが良くてしかも美人の友人が、送ってくれたもの。

問題は紙製ゆえもったいなくて使えないことだ。乾きものと花を生ける(のせる)ことだけを許している。

これを壁紙にできたらどんなにいいだろう。将来、ヘッドボードのないベッドを購入したら、壁にこの皿をヘッドボードとして天井まで瓦のように並べたい...

紙の工芸品はなぜこんなにも美しいのだろうか。


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「森ガール」な人々




友人から、「森ガール」という人々の話を聞いた。
彼女自身は、「森ガール」の条件すべてにあてはまるわけではないが、「異端森ガール」という気分になることがあるそうだ。

毎度いろんな種が現れますな。
まるで日本社会全体がポケモンワールドのようだ。


日本社会では、ある共通項目(思いつきでポジティブ・スティグマと名付けよう)を持つ人々をカテゴライズして名前を与えるのが盛んだ。
最近では...古い!と失笑を買うかもしれないが、負け犬/勝ち犬、草食系男子/肉食系男子とか?



われわれは「理解が及ばない闇」に対して不安を感じる。
大昔から人間はべったり広がる自然界を恐れ、そこへ切れ目を入れ、整理整頓し、発動の因果関係を予想可能にし、納得し、安心を得てきた。
何やらモヤモヤした得体の知れないものに名を与える(八百万の神がそのよい例だ)ことにより、固定の意味に縛りつけてしまうのだ。
操作可能、予測可能になると、人間の不安は大部分取り除かれる。
また、物事を単純化することによってその場その場の思考を節約、あるいは放棄することができ、何かと楽になる。

己に何かと分かりやすい名をつけてポジティブ・スティグマにしてしまう人たちは、自分を固定化、単純化することと交換に、アイデンティティの安定を得ているのかな、たぶん。


日本には単一民族神話が長く生き延びることができるだけの「べったり広がる自然」(この場合、隣人同士が感じるお互いの近似感覚や親近感など)が、世界の他の場所に比べて(それが幻想にすぎないにしても)あった/あるのだ、と仮定してみよう。
隣人が全く別の言語を話したり、肌の色や髪の色が全く違ったり、得体の知れない風習や信仰を持っていたり、という未知との遭遇に対してわれわれが初心だった/だから、今も「森ガール」やら「アシヤレーヌ(死語)」などといったカテゴライズが無邪気に増産されているのかも...

こういったカテゴライズには欠点もあり、個人間のコミュニケーションを妨げたり、場合によっては権力に利用されることになったりする。



あるいは他の説明をするとしたら、日本人は「型」が好きだと言えるかもしれない。
ほら、美人画の型とか、役者の型とか。様式美を重んじる、ということですな。



まさしくこうやってキッチュな分析をして楽しんでいるわたしの行為こそが「理解が及ばぬ闇」に切れ目を入れる行為そのものなのだが。拾集がつかなくなる前に筆を置くことにしよう。




最後にゴッフマンの「スティグマの社会学」から:

「社会は、人々をいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然に感じられる属性のいっさいを画定する。さまざまな社会的場面が、そこで通常出会う人々のカテゴリーを決定する。状況のはっきりした場面では、社会的交渉の決まった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって、未知の人が面前に現れても、われわれは普通、最初に目に付く外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の<社会的アイデンティティ>を想定することが出来るのである。」


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冬時間




昨夜土曜日から今朝にかけて、冬時間になった。


時計の針を一時間遅らせる(戻す)ので、一時間長く眠っていられるはずが、いつもと同じ6時45分時間に目が覚め、「今朝はまだ5時45分なのに...もったいない...しかも日曜日!」と思いながら起床。犬を庭に出してやらねばならないのだ。

外の空気に触れたからぱっちり目が覚め、ニュースをチェックし(今週末からシカゴへ行くので、新型インフルエンザに関する米国国家非常事態宣言が気になる)、紅茶を入れておめざにマカロンを食す。

6時50分。外はまだ真っ暗。

長い一日になりそうだ。


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