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Brugge Style
強いだけじゃだめかしら
朝青龍。
あ~あ。
角界に興味はないが、「道」には興味があるので彼に関して出る記事はちょっとだけ読んだ。
相撲の世界に「道」の精神があるのかどうかは知らない。
イメージとして、師を得、伝統を受渡し、しかも自分だけのやり方で真理に至る道を「強く」なりつつ精進する、という心構えは「道」であると言っていいと思うので、ここではそういう前提で書く。
日本人はたいていの人が賛成してくれると思うが、「強く」なりつつ精進するという場合の「強く」は、腕力のことだけを意味しているのではない。
当然、精神的な強さをも意味しているのである。
われわれが横綱のような人物(横綱だけでなく、総理や皇太子や一般の社長やら)にふさわしいと期待するのは、動揺しない心、謙虚さ、勇気、公平さ、礼儀などの類いの強さである。
だからそういう人物が嘘を言ったり、他人を罵倒したり、自己中であったりするとぎょっとするのである。
「横綱って腕力が一番強い人のことでしょ?」
この青年自身、そう思っているような雰囲気だ。
日本は、即よい成績を出し、即よい結果を出し、即カネが儲かることが最善とされる社会になった。Aをしたら時間差なしでBとして結果が出る(自動販売機みたいに)ことが大前提の唯資本主義の影響だと思われる。
腕力が強いだけの力士が育つだけの稽古(あの陰惨なイジメ)、よい成績をとるためだけの勉強(しかも成績が芳しくないと親は塾に怒鳴り込むそうだ)...
わたしは例えば横綱が育つのも、子どもが(大人もね)育つのも、もっともっともっともっと時間がかかることだと思う。
「道」は長く険しいが、寄り道をして花を見たり、出会った人とお弁当を分け合って親しく話をしたり、楽しいこともたくさん用意されている道なのである。
タイトルはわたしの好きな俳優の一人、イザベル・アジャーニの「かわいいだけじゃだめかしら」から頂戴した(笑)。
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トコノミスト
勝手に弟子入りしました。
トコノミスト。
雑誌graceのアートディレクターをつとめなさる岡本一宣氏とおしゃる方が、毎月同雑誌に「世界の床の間から」と題し、ページ4分の1くらいの記事を書いていらっしゃる。
記事の内容は置くとして、「世界唯一のトコノミスト」と名乗られているから
「ちょちょと、トコノミストはここにもおりますがな」
と、激しく反応してしまった。
(正しくはマルクシスト、マルクシアンの差に習って「トコノミアン」と自称していたのだが、まあこんな違いはどうでもよい)
うっかりしていた。こういうことはさっさと公言して世界から認知を得ておかないと「家元」を名乗れなくなってしまうのだ。
ま、じゃあ弟子にしてもらうか。
トコノミストて何のこと?と言われそうだから岡本氏の解釈を紹介する。
「床の間とは主人の文化度の顕示とある種のナルシシズムと考える。要は住まう場所における自慢のコーナーなのである。」
どうだ、まさにワタクシではないか。
自分の貧しい知性と主張には常に懐疑的であるよう努めたいと思っているので、上の文章は「消極的な自慢」としたいところであるが。
母方の実家には堂々たる床の間があり、弘法大師のお手によるとか、○○天皇から賜った、とかいう立派な(嘘。地味やな~という印象)軸が下がっていた。
わたしはひんやりしたカビ臭いその床の間に座って本を読んだり絵を描いたりするのが好きな子どもだった。遠くからいくつものおふすまを隔てて人の声が聞こえた。
祖母に見つかると叱られたが、祖父は笑っていた(わたしは彼のおかげでジジコンプレックスなのである)。
実家の床の間は軸は下げずに年中小磯良平の絵がかかっており、やはりそこに座り込んで、まあなんですな、年頃になってからは泣いたりしたこともあった。
...いかにわたしが床の間に馴染んできたか、ということを書いたが、やはりこれも読む人次第ではMoetの自慢話である。
西洋の家は、『床の間』という限られた宇宙(=自分)空間を最小限のモノで表現するのではなく、居間全体を床の間とする傾向があるのでわたしの趣味ではない。
今の家にはマントルピースやニッチがあるので、そこがトコノミストにとっての床の間か、という感じではある。たしかにその小さい舞台/宇宙にいろいろ飾り付けるのは好きだ。
しかしながらトコノミストの真髄は物理的な空間にではなく、心情的なものにあると思う。
何かが現れては消える場、と言いますか。
それがまあ、ナルシシズムと自慢、に集約されているのだろう。
俳諧は床の間的な文芸だと思うので興味がある。
などなど...
もし岡本氏から入門許可のメールが来たら(来るわけないか)幸甚である。
身近に師はなくとも今後もトコノミスト道を精進していきたい(笑)。
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ラ・メールの効果は
友人が、眼は怒ってるけど口元は半笑い、という表情で話し始めた。
「(3歳の)娘がおとなしいと思ったのよ...
怖くなってわたしから声をかけて、見たら、全身がしっとり濡れているような感じ。
彼女の足下にほぼ空になったラ・メールとヴァセリンが...
わたしねMoetしゃんみたいにしてるの。
Moetしゃんみたいになるの~。うひゃひゃひゃ
マジで怖かったわ...」
そりゃ怖いやろな。
あのね、お嬢ちゃん。わたしは0.1秒ちら見したら、光りモノのアクセサリーやお粉でキラキラして見えるかもしれないけど、今度近くでじっくり見せてあげるわ。ほんとうはどんな顔か。
あ、ついでだけど、ラ・メールよりも最近のオルラーヌはいいわよ。
その後、お嬢ちゃんを頭髪から足の指の間まで3回洗ってもべたべたはとれず、仕舞いには食器洗浄剤を使ったそうである。
彼女はわたしへの恨みをこめながら、お嬢ちゃんをゴシゴシ洗ったに違いあるまい。
おまけにラ・メールとはまたダメージが最大ではないか。わたしだったら即夫に訴えて夫に弁償してもらう(笑)。
彼女は今後もわたしと友だちでいてくれるだろうか。
おそらくお嬢ちゃんとわたしの友情はたち切るように努力はしはるやろな...(笑)。
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パブリックでシャンパーニュ
ちょうどお昼前、近所の小さな広場を通りかかったら、ベンチに中年の男性が一人。
真っ赤なPiperを握りしめ、ラッパ飲みであおっていた。
一瞬、眼のやり場に困り、歩調が乱れそうになる(笑)。
何があっても動じない、というのがわたしのモットーだが、しまった、これは完全にスキをつかれた。
なんかイヤなことでもあったん?
あ、シャンパーニュを飲んでんねんからエエことあったんかな。
わたしも一度真似をしてみたい。
でもイヤなことがあった時にするかな、エエことがあった時にするかな。
いずれにせよ何かが壮絶だという演出をしたい場合であればふさわしいだろう。
実行する前に家族に止められそうではあるが。
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Peyton and Byrne
友人から「おすすめの紅茶ある?」とメールがきた。
先週、彼女のお宅でKusumiをいただいたから、それ以上のものをお望みなのだろう。
最近わたしを虜にしたのは英国のPeyton & Byrneの紅茶である。
味はもちろん、容姿がいい。ティーバッグの箱すらかわいいのだ。
今、ウチで消費しているのはペパーミントグリーンの茶筒に入ったラプサンスーチョンとアッサム。
ところでPeyton & Byrneのお店は、気違い帽子屋のお茶会かと思うほどのかわいらしさである。
が、ケーキは鑞できてる?というくらいヘビーで甘くて、わたしは一口すらも食べられない。
まるで...シリカゲルを思い出してしまう。「無害ですが食べられません」と書いてある、乾物の袋に入ってる、あれあれ。
で、その魅力的な姿態といったら、まるで生ヴィクトリアズ・シークレットのモデル。
女神様のような彼女たちを食べることはできないし、VSはモノの品質もいまいちだけど、遠くから見てる限りは眼福ワンダーランドではないか。
なんだか分かりやすそうで実は何も伝えていない喩えを2つも重ねてしまったが、そんな感じなのである(笑)。
先月、お茶はもちろん店頭のデコレーション用の紅茶缶をかかえてユーロスターに飛び乗った。復活祭の休みにはまたロンドンへ行くつもりなので、その時に2つめをねらっている(軽いが大きくて非常に持ち運びにくいのだ)。
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