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ベルサイユ宮殿と村上隆




ベルサイユ宮殿で開催中の村上隆の作品展示に関して、仏保守系団体の抗議運動が行われたことはニュースにもなった。


まず、このような抗議運動が起こる可能性まで読んでいたのならば、この展示は大成功だろう。

なぜならば村上隆が言う「(私の作品は)言語ゲーム」の狙いは、こういう抗議の「言い分」の中にこそあるからだ。たぶん。
つまり、ある状況に置かれた時に、その作品がどういう機能を果たすか、ということが彼の芸術なのである。ある空間や状況に裂け目を入れる、というような感じ。ベルサイユ宮殿には合わへんわ~、と言われてナンボ、という感じ。たぶん(へっぴり腰)。



一つ思い出したのは、前回ベルサイユを訪れたとき、ジェフ・クーンズの有名な「風船アート」等の展示が行われていたことだ。あのときは保守系団体さんから抗議はあったのでしょうかな。

わたしはベルサイユ宮殿という「空間をすべて意味で埋め尽くす、しかもできるだけゴテゴテと」という場に、クーンズや村上の芸術(しかも言語ゲーム)を置くのはすんごいええアイデアや、と思う。
ルイ14世なんかは喜ぶかもしれない(笑)。

なぜそのように思うのか考えてみよう。


クーンズの作品が宮殿内に展示されているのを見て、娘は露骨に嫌な顔をした。写真にもばっちり残っている。近所のほとんど毎日通っているホテルにクーンズが何体かあるので、彼女は見慣れてはいるのだが。

保守団体や8歳だった娘の言い分のように、ベルサイユ宮殿にクーンズや村上は合わない、という判断は、われわれにいったいどういう審査機関が備わっているからなのだろう?

そのことを考え始めたら、「美」と「芸術」は同列に語るのは是か非か、というのが頭を離れなくなった。このことに関しては全然分からないので今日は書かない。



あ、なぜ「ええアイデア」と思うか、でした。

芸術とは(神的)完全に至る、(人間的)不完全な表現ではないか、と前にも書いた

人間によって真摯に示される「完全を表現するにはこういう方法もあるけど、どう?」とか「私には世界はこういう風に見える(聞こえる感じる)けど、どう?」いう行為が「芸術」であり、しかし人間としてのリミット故にわれわれが決して「完全」に至る(満たす)ことができないとしたら、できるだけ多くの人間によって「芸術」が示されれば示されるほど「完全」に接近できるのではないか。

「空間をすべて埋め尽くす」という行為はすなわち「全」に至るという意思と欲望の現れなのではあるまいか。だからわたしはベルサイユ宮殿に村上の作品を置くことは「ええアイデア」だと思うのだ。



すっきりしなくて申し訳ないです。
美女から「村上、見に行かない?」と誘われたので、10月に行って参ります。


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