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Brugge Style
春のプロヴァンスへ
復活祭の休暇は、2年ぶりに南仏へ行こうと夫が提案、わたしは大賛成。
しかし娘は頑にイタリアを譲らないので、彼女を説得するためにガイドブックを出してきて企画を始めた。
海にはまだ早い(冬の海は大好きだ。冬のリビエラ)。
だから海辺でのんびりするというより、プロヴァンスの小さな村を重点的にじっくり周遊したい。
まあ、行ったら行ったで海辺に留まりたくもなるのだろうが。
旅の終わりはマルセイユで。
(単に利用する飛行機がマルセイユ往復なのだ)
そしてとにかくおいしい、地のものが食べたいっ!
英国の味覚にも慣れてきて、ロンドンのレストランにはおいしいものもあると思うが、大陸へ渡るとやっぱり「そうだ、『おいしい』とはこういうことを言うのだ!」と叫びたくなる。叫びたい。
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one way
ポスト・カードを買うということ。
ケンジントン・ガーデンズのサーペンタイン・ギャラリーは、ミュージアム・ショップである本屋が非常に充実している。
先日訪れたときも展示を見るよりも先に本屋をうろうろうろうろしていたのだが、突然ポストカードを買いたくなった。
ポストカードを買うのは何年ぶりだろう!
むかしむかし、神戸のトア・ウエストにワン・ウェイというポストカード屋さんがあった。
トア・ウェストという概念ができた頃なので、80年代初頭の話だ。
店は黒と白とグレー、しかしモダンデザインではなく、木製の窓枠の黒、壁の薄いグレー、天井の白...壁にぎっしりポストカードが並ぶ、そんな感じだったと思う。もしかしたら全くの記憶違いかもしれないが。
アンリ・カルティエ=ブレッソンやアンドレ・ケルテス、ロスコーやラファエロ前派、ディートリッヒやアルレッティ、ヴィクトリア時代のレプリカ、広告のレプリカなど、時間をかけて選び、吟味しては買い、相当なコレクションになった。その後、実用品として使ったり、処分したりもして今は靴の空箱3つ分に残っている。
少女らしい夢と憧れを買いに行っていたのだと思う(今ならタンブラーで代用?)。
何と言えばいいのかなあ、子供が大人の現実世界にあるものの雛形である「おもちゃ」を欲しがるのとはちょっとだけ違う。
少女にとって、人生は「お話の中にだけあるもの」なのだ。ポストカードはその「お話」。
あるいは、カードは、指の隙間や、頭の中からふっと消えてなくなってしまいそうなものがなんとなく形になっていて、しかも箱の中にためておき、時々出しては眺めることができる。
なんと素敵な媒体なのか。
クオ・ヴァデスやロディアのしぶい手帳、ノート類を始めて手にしたのもあそこだったし、中間色のインク壷や、シールやしゃれた包装紙など、使うあてもなく買い集め、憧れの「神戸の大人」めざしてワン・ウェイ。
(写真はサーペンタインで買ったもの。頭蓋骨好きです)
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秘密結社
コヴェント・ガーデンの近くまで来ると、
このアール・デコ様式の大きな石造りの建物が見えてくる。
宗教施設か裁判所か、というオーラだ。
昨日も付近まで来て、「そうそう、これをブログに書きたいんだった!」
と思い出したのでまた忘れてしまう前に。
これ、なんと「フリーメイソン」なのだっ!
ここで秘術と権謀術数が行われているのか?
陰謀を行う団体がロンドンのど真ん中にあるなぞ、
まるで必殺仕事人が看板を出してオフィスを構えているような感じ...
アジトは秘密にしておかなくていいのか?
そういう(間違った)イメージがついてまわるのは、
ノストラダムスの大予言だとかイルミナティだとかをも扱う
「トンデモ本」のせい?
わたしも前夫の父親がフリーメイソンであると知って
親近感を抱く(<単純万歳)までは
「世界を陰で操る陰謀の団体」という印象を持っていた。
この建物はフリーメイソン図書館と美術館
The Library and Museum of Freemasonry
健全な友愛結社としてのフリーメイソンの本部が備わっているのである。
名称の通り、一般向けの図書館と美術館があり、
その歴史と活動が公明正大展に示されている。
(しかしなんですな、逆にこの開けっぴろげさを
「怪しい」と思う人もいるかも・笑)。
フリーメイソンはご存知のように石工組合を起源にしている。
それを思ってこの堂々たる石造りの建物を見るとさらに感慨深い。
前夫の父親は「昔の石工が知識を独占するため、
また石工は建築に携わり城の秘密を知るので、王侯から良くも悪くも
特別扱いにされたのが始まり」と説明してくれた。
(愉快な人だった。どうしているだろうか)
現在はチャリティーや社会奉仕、会員間の交流などが主な活動であるという。
ロータリー・クラブのようなものですな。
内部等、あらためて「セカイ通信ロンドン」でご紹介するつもり...
(写真が夏のもので失礼。昨日はめちゃくちゃ暗かったので)
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「オネーギン」リハーサル
痛恨のミス!
今日から始まるロイヤル・バレエの"Onegin"、ナタリア・オシポヴァ(Natalia Osipova)が踊る日のチケットが一枚も取れていなかった...なぜなのかもう思い出すこともできない。自分のスケジュール管理の甘さが恨めしい。何がそんなに他に気を取られることがあったのだろうか。
ので、リハーサル(リハーサルはあまり好きではないのだ)がオシポヴァかも...の淡い期待を抱いて行って来た(ラッキー、オシポヴァだった)。
オシポヴァの演ずるロシアの田舎娘の魅力的なこと!
プリンスと結婚してプリンセス・タチアナになった時、もっと派手でも良かったかもしれない...しかし感情を押さえた優雅さは、悲しい恋を忘れることができない女の表現としては、かなり洞察に富んでいると思った。
優雅といえば、オシポヴァはロイヤル・バレエに来てから、どんどん洗練されて行くような気がする。人生経験的なもがあるにしても、大ファンとしてはこの変化を見るのが本当に喜びなのである。
マシュー・ゴルディング(Matthew Golding)はオネーギンのイヤミったらしいところがハマっていた。この方、近くで見たらブラッド・ピットに似たタイプで、おまけに立っているだけで非常に麗しい男前なのだ。
鏡のシーンは特に秀逸。
ダラダラと長くないところも良い、美しい作品だ。
......
「オネーギン」は、プーシキンの「エヴゲニー・オネーギン」を原作にした物語バレエだ。
ロシアは、ルネサンスにも宗教改革にも洗礼を受けなかった非ヨーロッパの辺境で、中世的な教会システムに抑圧されていたためか、芸術の花が咲くのは19世紀まで待たねばならない。
19世紀になるとまるで抑圧の弁がはずれ、たまりにたまった鬱積を糧にしたかのように文学、音楽、絵画に大輪の花が咲く。
わたしはもっと若い頃、とにかく19世紀のロシア文学が好きだったが、それはあの当時のロシアの有閑階級の有閑っぷり(わが愛するツルゲーネフには退屈した人々がたくさん出てくる)に憧れたのだ。まあ自分が農奴だったらと考えたらぞっとするのだが。
とにかくオネーギンも退屈した青年の一人だ。
洗練された容姿、影があるところ、知性的で皮肉なところがいいのか、若い女性にはたいそうもてるだろう。
しかし、根っから善良で単純で、社会に恨み言のない男が好きなわたしに言わせたら、悪い男になれない「ちょいワル男」、これはタチが悪い!
一方でタチアナはあの年頃にはよくある恋愛小説に夢中になった少女で、いつか自分もそんな恋愛をするのであると夢見る田舎娘である。
恋愛の準備ができている少女の前に、オネーギンみたいなちょいワル男が現れたらひとたまりもないですぜ!
オネーギンの服装は黒づくめで、それは彼の心の固さを現わしている。
最初の出会いから十何年後かに大人の女になったタチアナと再会した時に、彼は初めて心を開くが、その時はまるで彼の黒い服が薔薇色に染まっていくような気さえした...
しかしそこで衣装を着替えたりしないのは、彼の心が薔薇色に染まるのはほんの一瞬で、タチアナに拒絶され、また元の黒い姿に戻り、これまでよりも一層固く暗く心を閉ざして行くから(大人になれよ!)である...
...バレエのオネーギンは一貫してそういう人物(タチアナのラブレターを彼女の目の前で嘲笑と共に破り捨てるような)、一方、プーシキンの原作ではオネーギンはもっと「何を欲しているのか自分が全然分からない男」(<もちろん退屈のあまりである!)として描かれていると思う。
その分、プーシキンの原作の方が優れているとは思った。
(まだネットに写真が一枚も上がっていないのでコジョカル(Alina Cojocaru)の版を選んだ。コジョカルのタチアナもさぞ芸術的なことだろう。こちらはThe Guardianから)
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あれは酸っぱい葡萄
ガラス製のドリンク・サーバー。
これ、デザインはものすごくかわいいが、
ガラスの質の割りには高くないか?
と思ったので、
セールになるのを待っていたら
ああもう見つからなくなってしまったよ...
「手に入れられなかったが故に忘れられなくなる」アイテム。
ああ、まるで若き日出会ったあの人のようではないか。
「頻繁に使うか」とか「どうやって洗うの」とか
買う前は一切考えなかったことを考えて
「酸っぱい葡萄」にするしかない。
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