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マスクをする英雄




新型コロナ禍で、英雄もマスクをするなり。

ウィーン、美術史美術館のテセウス(Theseus and Centaur by Antonio Canova)。

プルタルコスの『英雄伝』によると、テセウスは古代ローマの建国の父ロムルスと共に、アテナイを建国した偉大な人物、怪力の持ち主として英雄視される。

新型コロナウイルス...ではなく、ミノタウルスを倒すテセウス。
あるいはマスクをしていないミノタウルスを取り締まっているのか。

マスクをしているところを見ると、ミノタウルスよりもウィルスの方が怖い?? なんて。


......


週末のロンドンの混雑と狂乱具合はコロナ前に匹敵したのではないか。

中心部のレスター・スクエア地下鉄駅などは、混雑のために一方通行に規制され、乗客が地上にまで一列に並ばされている始末。

英国・イングランドでは、オミクロン株感染者がピークアウトしたとの評価のもと、新型コロナ関係の規制がほとんどすべて撤廃されたからだろうか。
この感染者数低下は、カウント方法が変わったことも理由の一つに挙げられており、しかもピークアウトし始めたものの、途中から横ばいになっているのも無視できない要素であるという...

規制撤廃はもちろん科学的というよりは政治的なものだ。

ロックダウンが最も厳しかった時期に習慣的に官邸内でパーティーが行われていたとか、新型コロナ関係の物資調達などにまつわる汚職、支援金の不正分配、などとスキャンダルまみれの政権が、「ワクチン接種の成功」を強調して、選挙に向けての下心を見せているのである。

政府は、今後の行動は個人の良識にかかっていると言う。
国民を子供扱いしない格好なものの、そりゃ単に自己責任になすりつけることができるからに違いない。




ウィーン・コンツェルトハウスのベートヴェンも。
ベートーヴェン『英雄』、もちろん。


......


イングランドでルールがほぼ全撤廃とはいえ、公共交通機関や屋内ではマスク着用が奨励されてはいる。

が、奨励くらいでルールを守るイングランド人たちではない。

明らかに彼らの何割かは『ハマータウンの野郎ども』のマッチョ(褒めてません)なのだ。 
学校教育や中産階級的なルールの尊守や、権威への迎合は一番格好が悪い。「怖がり」は彼らのアイデンティティの面汚しなのである。
当局の指示に従い、ウイルスを怖がって「マスク」を着用する、ということは彼らにとって最大の屈辱なのだろう。公共の場ではその態度を明らかに誇示するマッチョさんもよく見かける。

これまでも感染者の病状や後遺症、病床に余裕がないため通常の手術の再再再延期などがメディアでも繰り返し放送されてきた。それでも一気に元の生活にもどる方を選ぶのか。マッチョのプライドは人命をかけて守るものらしい。
マッチョと英雄は似ているようで似ていない。




先週のオーストリア・ウィーンでは、ワクチン接種が義務化されるなど、欧州とひとくにちにいっても、ウィルス対策や人権の扱い方はいろいろだ。

オーストリアでは、カフェやティールームはもちろん、服屋さんに入るだけでも入り口でワクチン接種完了証明パスと身分証明書がチェックされる。
また、マスクは必ずFFP2でなければならない。

わたしたちはウィーンで室内楽コンサートに行ったのだが、コンサートなど不特定多数が屋内に集会するときは、ワクチン接種完了証明パス、身分証明書とともに、数十時間前までに簡易検査を受け、陰性証明を提示しなければならない。

この簡易検査は無料で、観光客も対象に漏れない。
例えばホテルの受付で「うがいタイプの検査キット」を受け取り、自室で検査、キットを最寄りのスーパーの回収箱に入れたら(下の写真がスーパーの回収箱)24時間以内に検査結果がメールで来る、というシステムだ。

このやり方は観光立国のひとつの有効手段なのではないか、と感心した。

コンサート会場の入り口で、ワクチン接種完了証明パス、身分証明書、検査結果の3点を提示し、目線でチェックするため、入場に通常よりは時間はかかった。しかし特に混乱はない。

最近訪れた国々の中ではイタリアが徹底していて、化粧品屋の入り口から列車内に至るまでQRコードを機械で読み取る人が待機している。それに比較すると、オーストリアの目線チェックは正確かどうかの懸念は残るにしても、抑制にはなるのではと思った。
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osipova juliet 2022


適当な写真が見つからないので昨夜のロイヤル・バレエ横玄関を


またすごいものを見てしまった...

ロイヤル・バレエRomeo and Juliet 『ロメオとジュリエット』ジュリエットNatalia Osipova、ロメオReece Clarke。

わたしは Natalia Osipovaがロイヤル・バレエに入団して以来の大大ファンで、彼女の公演は欠かさず見てきた。

しかし、最近(コロナ前の話ですね)は、公演(役柄?)ごとの出来の差が激しく、素晴らしい時は「世紀の」公演、そうでないときは...という感じで大変ムラがあり、今回は当初、観覧する予定はなかった。

相手役の、長身で姿形の美しいReece Clarkeも、ハレー彗星のように飛んでくるNatalia Osipovaのサポートは彼でなくてはならないのかと思う。
そうは思うものの、彼は多少力不足なのではという側面もありで、このチケットに140ポンド使うなら他の公演に使うかなあという感じだったのだ。

だから昨夜の中世ヴェローナの夢はチケットを譲っていただいたおかげ!!


Natalia Osipovaはおそらく、『眠れる森の美女』のオーロラ姫や『くるみ割り人形』のシュガー・プラムの精など、「美しいけれど空っぽな役」を演ずると、ある意味で役不足(文字通り、役が彼女に十分ではない)なのではないかと思う。

美しいけれど空っぽな役が無意味だと言っているのでは決してない。
バレエを含む演劇においては、とてつもなく美しいだけで空っぽな役というのは非常に重要(なぜならそれはイコンに描かれた聖母像のようなもの)だと思うからだ。
イコンに描かれた聖母像は、「人間とは何か」をこちらに問うてくるのである。

一方、彼女がジュリエットやジゼルなど「ぎりぎりの状態で人間はどのようになるか」という人間臭い役を演じたら天下一品!!!!

ダンサーの身体つきのことを言うのもどうかと思うが、このところ丸みのある身体つきだったのが、幼いジュリエットと重なるようなほっそりとした少女らしいラインを復活させているのもよかった。

幼いジュリエットの愛らしさや可愛らしさ、ロミオに出会い、生か死かの重大決心をするきっかけになった怒涛の感情の途切れない表現と心理の変化、もうすごかった。ブラヴォー。


最後に、敵役Tybalt役の平野亮一さん、すばらしかった。
ロメオのReece Clarke、パリスLukas B. Brændsrødと三人並んだらもう圧倒的な華。
彼はドンキホーテの人気マタドールEspadaやオネーギンなど、ヤクザな役を演じたら他を食ってしまうほど輝く。
おそらく彼の実像とは正反対だからだろう。
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augarten




書きたいことの量の都合で昨日の記事から独立させました(それで昨日の記事は最初版とはかなり違っています)。

磁器工房Augarten。

何十年も前、初めて訪れるまでウィーン市街からは離れた森の中にあるのかと想像していたのだが、実際は結構な市街地にある。

前庭には前日に降った雪が残っていた。

改装新オープンが1月17日だったにもかかわらず、その数日後訪れたら閉館したままで地団駄を踏むモエ。

併設のすてきなカフェは営業していたし、雪の残る公園内を散歩できたのでよしとしよう。


17世紀ごろの王侯貴族の間では、東洋の繊細で美しい白磁が、ステイタスや趣味を見せびらかすのにもぴったりの憧れの芸術品だった。
ホーフブルグの博物館には当時の人々の熱狂が伝わってくるような、ものすごく美しい伊万里が飾られている。

欧州各国は自国で磁器を生産すべく競い、最初に成功したのが18世紀初頭、ザクセン選帝侯兼ポーランド王のアウグスト2世に命じられた錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー。
こうして開かれたのが有名なマイセン釜で、アウガルテンは欧州で2つ目になるのだとか。アウガルテンはマリア=テレジアによってハプスブルグ直属となる。

ホーフブルグ博物館には、伊万里を真似て作られた名前も「日本」という磁器セットが飾られており、しかし本物とのデザインの差は歴然としている。本物に比較すると「大量生産の土産物じゃ?」という感じである。

それが現代では「憧れのマイセン」「憧れのアウガルテン」となっているのだから、欲望と洗練とは力あるものだなあ。




アウガルテン(公園)内には「アウガルテン高射砲塔」が残されている。
なんとも言えない冷たさと悲しみを放ちつつ。

「第二次世界大戦中にドイツ空軍が、連合国の空襲から戦略上重要な都市を防衛するための都市防空設備として建築した、鉄筋コンクリート製の巨大な高層防空施設」(Wikipediaより)

アウガルテン高射砲台は使用されることはなかった。

昨日はホロコースト・メモリアル・デイで、夜、モニュメントは紫色にライトアップされ、家庭では窓際にろうそくをともし、ジェノサイドに想いを馳せた。
わたしもロンドンで開かれた行事に参加した。




アウガルテン磁器は、ウィーン本店の地下と、ホーフブルグ宮殿の博物館で。
本店はたまたま他にお客さんがいなかったからか、地下で貴重なコレクションをいろいろ見せてくれた。
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祝祭劇場としてのウィーン



大好きな都、ウィーンに関しては書きたいことや載せたい写真がいっぱいある。
延々とウィーンの話をするのもどうかと思うが、今日は祝祭劇場ウイーンの「幕間」的詰め合わせを。

テーマ曲はブラームスのワルツOp. 39 No. 15で。


まずはオーストリア=ハンガリー帝国皇帝(兼ハンガリー国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃エリーザベト@ベルヴェデーレ宮殿。
残念ながら、最も有名なヴィンターハルターによる肖像画群はシシィ博物館内にあり撮影禁止なのでこちらを。

彼女の肖像と名前はウィーンのアイコンとして商業的に消費される。
あっちにもシシィ、こっちにもシシィ。お菓子の包装にも、ケーキの名前にも、土産屋のマグネットにも...

世紀末、帝国が断末魔を上げるなか奇しくもその舞台上に現れた薄幸の美女。



観光名所ですらあるスーパーマーケットJulius Meinl。

食料品に生産国の国旗が振り当てられていて楽しい! 顔見世。



ウィーンでは必ず行くレストランSteirereck im Stadtpark。

公園内にあり、レストラン屋上で菜園や養蜂をしていて、おいしく、美しく、気持ちのいい接客。
パン20種類。まさに劇場。選べない...



夫の気に入り、伝統的なウィンナ・カフェCafe Sperl。

ある夜、このカフェの前を通り掛かったら、見覚えのあるソファーの柄が目に入った。
19世紀ウィーンが舞台のTVシリーズVienna Bloodで撮影現場になったカフェじゃない? 
と調べたら大当たり! 



「世界劇場」の立役者、美術史美術館と自然史博物館の間に浩然と座るマリア・テレジア。



マリア教会前、ハイドン広場のハイドン像。
エステルハージ家の個人の劇場で演奏するオペラやシンフォニーを書き、時代の変化に対応して市民参加のわかりやすい大合唱曲をも。
偉大である。



フンボルトバッサー・ハウス。
彼の設計したゴミ焼却場の煙突の煙はウィーン市内からも見られる。



泣く子も黙るウィーン国立歌劇場。投宿したホテル・ザッハーの向かい側。



ケルントナー通りで毎夜足を止めたクラシックなファサードの店。
2階の人形劇舞台のようなデザインが好き。



たまらなく好きなウィーン分離派の展示施設、セセッション館。19世紀末、建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒの設計による。

こちらにはもちろんクリムトの『ベートヴェン・フリーズ』がある(天井ぞいのかなり高い位置に展示してあるので写真がなかなか上手く撮れない!)。
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図書館という宇宙@ウィーン国立図書館




ウィーンのホーフブルグ宮殿内にある国立図書館の中心「プランクザール」(18世紀の図書館)は世界で最も美しい図書館の一つに数えられる。

ずっと欲しかった(そして去年ついに買った)、美しい図書館だけを集めた美しい写真集にももちろん掲載されている。


細部にまで気を配り、美麗に飾り立てられているのは当然と言えば当然。
ハプスブルグが、その皇帝権の理念を基礎づけ、正統性と合理性を証明して見せるためなのだから。




ここはハプスブルグが掌握する「世界に対する知」の殿堂であり、ハプスブルグが「支配すべき全世界」の象徴なのである。

館内が4つのセクションに分かたれているのにも理由がある。
「四」は世界を構成する要素、土・水・風(空気)・火の四つの元素の数だ。




ヨーロッパ中世の王侯は、「武力で支配する権力者」という存在から、「支配の正統性を持つ権威ある者」へと自己イメージを転換させていくのに、図書蒐集を役立てた。
「叡智による支配」の第一歩が図書蒐集であり、学芸保護、美術保護と続くからである。

古写本や古代遺物の蒐集は、世界を項目別に分類、体系化、再構成し、百科全書的になり、やがて世界をカタログ化した小宇宙を形成するようになるが、これが博物館の元となる。

王侯らがこういった蒐集をし、分類、再構成しているということは、小宇宙を統御する能力を象徴的に表し、さらに広い世界としての大宇宙にも君臨する能力がある、という意味を持っていた。




まあ想像できないでもない、その気持ち。
ハプスブルグの掌握するこの「全世界」を、なんとかカメラの二次元上に収め、自分のもの、自分の記念、自分の思い出にしようとする観光客の行為も興味深い。


この図書館を訪れた後、美術史美術館にアルチンボルドの『四季』を見に行った。


アルチンボルド『夏』1563年。
「アルチンボルト」はカタカナではタグづけできない(笑)。



アルチンボルドの作品はパレイドイアであり、ゲテモノというか、キワモノ、ウケ狙い、おもしろみ、遊び心...そういうものが前面にある一方、本質としてはモデルになっている当時のハプスブルグ当主マクシミリアン2世が支配する、支配すべき世界の寓意的な暗号像になっている。全然、無邪気じゃない。

彼は四季の支配者であり、季節ごとの自然の支配者、収穫物の支配者であると自己賞賛しつつ、世界支配の正当性を証明している...メガロマニアックだ。

彼が支配しようと欲するのは現実の政治世界ではなく、観念の中での「大宇宙」つまり神が支配する自然世界の完全掌握なのだ。


アルチンボルド『水・冬』1566年



(多くは松宮秀治先生の『ミュージアムの思想』に拠っている。こちらは絶版で、友達に貸し出し中のため、手元に図書館でとったメモしかなく、正しい引用ができていない)
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