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廃墟大好き




廃墟大好き、遺跡大好き...

遺跡は歴史や文化を伝える場所で、一般的に保護・保存されている一方で、廃墟は荒廃が進んだ場所であり、その荒れた状態こそが魅力だ。比較的近代文明の遺物であることが多い?


廃墟といえば、廃墟になる前にも何度か滞在したことのある、今では「女王」として有名な摩耶観光ホテルや、ヨーロッパの村や街でも、打ち捨てられた教会や邸宅...

もうここにはないもの、過ぎ去っていってしまったもの、今この瞬間に指の間からこぼれ落ちるもの、になぜこんなに惹かれるんでしょうね。


冬晴れの昼下がり、うちからは比較的近所、ウェスト・サセックス州のCowdray Houseへ、散歩に行った。チューダー期(16世紀、火事で破壊されたのは18世紀)に建設された邸宅の遺跡。
こちらを訪れるのは10年ぶりくらい...

「#遺跡大好き」にとってはたまらないスポットである。




こちら、もちろん遺跡は遺跡だが、また、廃墟というにふさわしいこの建物、火災にさえあわなければ、現存するハンプトン・コートのようだったのだろう。

以前は入場できていたようだが、このところずっと閉鎖されている。危険なのだろうか、と思う。


ここでグランピング(<一度もやったことないけど...)してみたいなあ!
で、ヴィオラ・ダ・ガンバを演奏してもらおう。




周辺に2時間ほどのハイキングコースがあるものの、出発が遅れ、少しだけ歩いて、併設のティールームでお茶をして帰ってきた。


ここのスコンはわたし的ベストテン最上位。

わたしはもちろんスコン。
クリーム・ティー。
散歩の後はこれが楽しみなのです...
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イスパハンの王様のケーキ 




今年の1月6日、カトリックの祝祭、公現祭は、ブルージュ到着が遅れて「王様のケーキ」(ガレット・デ・ロワ GaletteDesRois、オランダ語ではDriekoningentaart: 三人の王のタルト)を食べ損ねた。


公現祭は、年末に誕生したイエスキリストの元に東方の三博士が訪れ、世界中あまねく救い主の光が「公現」したことを祈念する。

この日には、王様のケーキを食べる。
王様のケーキにはひとつ小さなフェーヴ(元々は乾燥豆、現代ではさまざまなフィギュア)が入っており、これを引き当てた人はその日一日王様になれるのである。

また、この日をもってクリスマスの片づけをする。


今年ブルージュのパティシエVan Mullemは、ジュエラーとコラボレーション、特別な王様のケーキを製作した。
5日間、毎日1つだけ、2500ユーロ(約40万)相当の18金のペンダントをフェーブとして入れた王様のケーキを販売したのである。王冠をかたどったペンダントだったらしい。


カトリックの祝祭ゆえ、わたしが現在住んでいる英国イングランド(英国国教会)では王様のケーキは買えない。
それで毎年自分で作っているのだが、今年はやっと昨日焼いた。

友達からピエール・エルメのイスパハン(薔薇、フランボワーズ、ライチの組み合わせ)の王様のケーキが一番美味しかったと聞いたので、レシピを探して真似してみた。
手前味噌だが、フランボワーズの爽やかな酸味がアーモンドクリームと好相性で美味しかったです!

フェーブはまだ引き当てられていません...
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ウェッジウッドの里


Stoke-on-Trentのウエッジウッド本社のティールーム。
期待よりもカジュアルというか、空港のカフェテリアのようだった。



大阪の梅田のヒルトンプラザに、ウェッジウッドのティールームがあった。〜90年代。
ご記憶の方がいらしたらうれしいなあ。

よくお茶を飲みに行った端正なティールームだったのだが、いつの間にかなくなってしまった。


18世紀にジョサイア・ウェッジウッドが起こしたウェッジウッドは紆余曲折を経て、買収し、買収され、95年には低価格化ですっかり雰囲気が変わり、現在ではフィンランドの会社の傘下になり、生産はほとんど中国で行われている、と聞く。

中国で生産されたウェッジウッドはウエッジウッドではない...という趣旨の記事を読んだ記憶があるが、中国生産ではなく、95年の低価格化が雰囲気を変えたのだとわたしは思っている。

ヨーロッパの磁器は、東洋の磁器を真似すべく開かれた最初の釜マイセン(18世紀)などを例に挙げるまでもなく、中国や日本の磁器に対する憧れそのものであり、磁器にいわゆるシノワ柄が多いのも、ヨーロッパの博物館にはこれでもかと景徳鎮や伊万里が飾られているのもその名残だ。
マイセンにはその名も『柿右衛門』というシリーズもある。

だから、ウェッジウッドが中国産になってしまっては...と嘆いている方には「回り回って、あれほど憧れた中国で生産できるようになってよかったね!」と、言うしかない(笑)。


チェスターからの帰路、イングランド陶磁器の里、Stoke-on-Trentに立ち寄った。
ティールームには昔のこの釜のイメージは皆無だったが、V&A主催のウェッジウッドの歴史博物館がとても興味深かった。




こちら、『ポートランドの壺』も...

紀元後25年頃の古代ローマで作られたカメオ・ガラスの壺を、18世紀、イギリスの外交官が英国に持ち帰った(現在は大英博物館所蔵)。
これをモデルにしてジョサイア・ウェッジウッドが1790年に作製した同名のジャスパーウェアが上の写真の『ポートランドの壺』だ。


ちなみに、ウェッジウッドが古代ギリシャ・ローマをテーマにいわゆるジャスパー・ウェア(あの、ウエッジウッド・ブルーの地に白のカメをほどこしたデザインね)を多数制作した背景はこう説明できるかもしれない。

18世紀前半、ヘルクラネウムとポンペイの遺跡が発掘され、西洋人の古代への関心を集めた。
それまでの宮廷的な、装飾的・官能的なロココの流行に対する反動が盛り上がり、より精神的で簡素で強い様式が求められるようになる。

「高貴なる単純と、静かなる偉大」(byヴィンケルマン)、とりわけギリシアの芸術が模範とされるようになったのである。宮廷文化に対する市民イデオロギーともいえよう。

ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンは、古代ギリシャこそ美のスタンダードであるべきと定めた本を出版、これが大きな反響を呼ぶ。
ちなみにこのヴィンケルマンが「ギリシャ彫刻は白い」と述べたため、古代ギリシャやローマの建築や彫刻は漂白されるようになったのはあまりにも有名な話である。

当時、英国で盛んだったグランドツアー(17世紀初頭から19世紀初頭にかけ、イギリスの裕福な貴族の子弟が行った大規模な海外旅行で、イタリアは人気の旅先だった。彼らは競って古代ローマの文物を買い漁った)の出現により、ヨーロッパ全土に新古典主義の復活が広まり、多くの偉大なコレクションの基礎となる骨董品収集の流行が始まった。

ウェッジウッドはこの流行に目をつけ、多くのジャスパーを製作したのである。

今も、英国のアンティーク商やガラクタ市に赴くと、さまざまな時代のジャスパーウェアが、比較的安価に手に入る。

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イングランドで一番中世の面影を残す街? チェスター




わたしが住んでいる、ロンドン南方の州からは車で4時間、あと30分ほど走ったらリバプール、西はすぐウェールズ...という位置にあるチェスターへ週末を利用して観光に行った。

街の起源は古代ローマの時代までさかのぼり、円形劇場の遺跡が半分、あるいはコラム(石柱)などが残っている。

古代ローマの北限は、スコットランドとの境にあるハドリアヌスの長城なので、ここよりもまだ先まで彼らは行ったわけだが、まあご苦労なことです。




ローマ人の次に英国島へ入ってきて覇権を握ったアングロ・サクソンの、大王アルフレッド(9世紀)の時代には、たびたび北から侵入してきていたヴァイキング(デーン人)を撃退、街の城壁をさらに固めた...この城壁はまだチェスターの街を囲んでおり、城壁をたどって街を一周できるのだ。







中世には街のそばを流れるディー川を利用した通商都市として栄え、その面影はチェスターの中心街に誇らしげに並ぶ白壁に黒木の家屋として残っている...がちなみにこの愛らしい建物は、ヴィクトリア朝の黒白リヴァイヴァル建築で、チューダー建築を真似て作られたものだ。

チェーンでないカフェやレストランも多く、土曜日の夜の賑わいはすてきだった。




17世紀のスチュアート朝の時代には、王党派と議会派が争い、チャールズ一世は今も残る塔の上から王党派が惨敗するのを見たという。
最終的に、王党派は敗北、その後、英国では議会が強大化し、立憲君主制が確立され、立憲政府の基盤となったのである。


このように歴史がとてもおもしろい英国ではあるが、「その土地の美食」という文化はほとんどないのが返す返すも残念である。
わたしたちは抜群においしいイタリアンを食べた。
あ、古代ローマ人の影響?!(<違う)
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キュビストトウキョウ




先月、日本一時帰国中の最終日には、上野の国立西洋美術館を訪れた。

明日はもう「西洋」に戻るのに、日本の最終日になぜ西洋美術を...と思いもしたのだが、行きたかった国立新美術館の『サンローラン展』が終了していたのだ。


コルビジェの美しき国立西洋美術館ではキュビズム展をやっているとのことだった。

ああ、関西人のわたしの東京の見方って、ものすごくキュビズム的なのではないか!? ...と思った。


キュビズム見学の前に。
ロダンの地獄の門が開く...


どういうことかというと、キュビズム作品を見るといつも関連づけて思いだしてしまうのはフッサールの現象学のことだ。

ピカソも、ブラックも、その先駆者のセザンヌも、時代的に現象学のことは知っていたに違いない。


フッサールは、人間はそれぞれの主観的な枠組みや先入観を持っているため、対象を経験し理解しようとしても対象の一面、断片を切り取ることしかできず、対象全体そのものではない、という。
その割には、まるで知ったように全体を了解してしまうのは、人間は個々の主観性だけを用いるのではなく、特定の文脈や社会的背景の中で共有される「共同主観性」を通じて、つまりさまざまな断片を寄せ集めて、対象を構築するからである。

例えば、上の写真のロダンの『地獄の門』を正面からだけ見て門である、とわたしたちに分かるのはなぜか。
それは自分の主観だけを用いず、特定の文脈や社会の常識みたいなもの、他さまざまな情報の断片を寄せ集めて、「門」を構築するからだ。

なら、いろいろな角度から眺めた対象を、全部画面に載せてしまえ、というのがキュビズム...とははしょりすぎか。




わたしも慣れない東京について、同じようなことをしようとしていると思うの...

わたしの東京に対する経験や理解は断片とその集まりにしかすぎず、常に立体感を持たせようとしているのだが、どうも東京は...

立方体(キューブ)の集まりみたいなもの...


丁寧に説明するなら、キュビズムはを異なる角度から見た対象を同時に2次元に落とし込んで描くことで、対象の本質や構造の多様性を表現しようとする。

現象学は主観的な経験の多様性に焦点を当て、直接の経験を通じて対象の意味を理解しようとする。
また、「エポケー」を用いて先入観から離れ、客観的で中立な観察を試み、主観と客観の統合を通じて経験の本質や構造を明らかにしようとする。


というわけで、東京を最後に英国へ帰ってきた。
(今日で日本の話は終わりかな!)
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