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眠れる森の美女マリアネラ




(先週のことになってしまったが)連夜で英国ロイヤル・バレエ「眠れる森の美女」を。
金曜の夜はマリアネラ・ヌネツ (Marianela Nunez) のオーロラ姫。

マリアネラ・ヌネツのオーロラ姫を楽しみにしていたばかりでなく、木曜夜のオシポヴァ負傷のための代役公演翌晩の金曜だったため、代役公演の感想やオシポヴァの状態に関して、フォワイエに集う噂話好きな面々から興味深い話が聞けるかも...と野次馬根性丸出しでもあったのも正直に認めたい。

フォワイエで隣りになった老紳士とその部下らしい女性から聞いた話によると、彼はフォワイエに集うバレエ好き話し好きの典型で、「眠れる森の美女」だけであと4枚もチケットを持っている。合計7回見る予定の3回目が当夜(金曜日夜)だというから、わたしなど足下にも及ばない好事家のようである。

彼はオシポヴァがキャンセルになった木曜夜の公演も、その数日前にオシポヴァの代役がマチネでデヴューした数日前の公演も当然見ていて、「マチネではそれほど悪くなかったんだよね...むしろ綺麗だったの」と上品な口調でゆったりとおっしゃった。「悪くなかったからオシポヴァの代わりをさせる気になったのではないかと思うわね、ボクは」というのが彼の意見。
しかし、彼をしてもオシポヴァの状態は茨に囲まれたお城の中の謎で、ROHのサイトからもオシポヴァの代役情報だけが(今もなお)削除されている。


マリアネラのオーロラ姫でしたな。
上手く言えないが、わたしはマリアネラ・ヌネツの独特の雰囲気と、温かみのある踊りが大好きだ。
マリアネラ、お目目キラッキラ。最高に魅力的なあの笑顔。
ロシア人が踊るオーロラ姫とは全然違う、すっきりと、それでいて複雑で、血の通った温かいオーロラ姫だった。

マリアネラ・ヌネツのリアルライフの夫にして舞台上の王子であるティアゴ・ソアレス (Thiago Soares) は欠場。
しかし意外にも代役の王子 (Vadim Muntagirov) が、前夜の王子マシュー・ゴールディング (Matthew Golding) に比較しても格段によかった。

前夜(木曜夜)は...ひょっとしたら「怪我」の恐怖が、ロイヤル・オペラのダンサー達の心に、カラボスの呪いのようにひっそり忍び込んだのかもしれない。と、素人は考えるのである。知らず知らずのうちに人間の心に静かに忍び込むそういう恐怖が、悪魔の正体なのだ。



(写真は前シーズンの「眠れる森の美女」、ballet.net より)
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眠れる森の美女ナタリア




これまでわたしが見た英国ロイヤル・バレエの「眠れる森の美女」で、オーロラ姫を踊ってダントツなのは、ロイヤルでのキャリアも長くなった頃の、神憑ったアリーナ・コジョカル (Alina Cojocaru) だと断言してもよい(右写真、 ballet.net より)。

昨夜は待望のナタリア・オシポヴァ (Natalia Osipova) のオーロラ姫を見ることになっていた。
もしかしたらコジョカルをも上回るかもしれないという期待。
16歳の喜びに輝く姫に扮したオシポヴァが、舞台の隅から隅まで明るい光で照らすかのように踊ると、目が開けていられなくなるほどの美しさなんじゃないかと...


劇場に到着して当夜のキャスト表を受け取る。
時々、その横に小さい紙が余分に置いてあることがあり、それは良くないニュースがあると言うサインだ。

昨夜は、ああ、その小さい紙があったのだ...

ナタリア・オシポヴァが負傷のため欠場するというニュースは、ロイヤル・オペラ・ハウス中をいつもとは違う雰囲気にした。
しかも代役が、とても同格とは言えそうもないダンサーだというのだから、オシポヴァ大ファンの憮然たる面持ちはご想像頂けるだろう。
実際、劇場が埋まってゆくと空席が目立つセクションがあった。オシポヴァ目当てのファンがROHのツイッター等で事前にニュースを知って来なかったか、劇場に来てから帰ったかに違いない。

公演が始まる前にバレエマスターが舞台上に歩み出、事情(前日のリハーザルでの事故、オシポヴァは背中から落ち、病院に担ぎ込まれた等)を話した時は、「返金に応じろ!」「ブー!!」という罵声が飛び、足をバタバタ鳴らす抗議のアクションも起こるとげとげしさだった。

事故は事故であり避けられない。ある統計によると、バレエはいかなるスポーツと比較しても最も過酷で事故と負傷の多い身体運動(で、決してオカマっぽい男子がすなるヌルい身体運動ではない)だという結果が出ている。ダンサーとしての寿命を少しでも延ばすために、怪我や身体の管理は十分にしてもらいたいと願う。

しかし、オシポヴァクラスのダンサーを、オーロラ姫デヴューしたばかりの別クラス(と敢えて言う)のダンサーで代役を立てるというのはどういう了見なのか。オシポヴァを見るために奮発して100ポンド200ポンドの席を買ったり、チケット発売開始時間にネットの前に陣取ったファンの気持ちはどうなるのか。「がんばりますから見て下さい」というのは学芸会で通用するかもしれないが、プロもそれでいいのか。スケジュールや人事的に無理があるのは承知の上で、せめてヌネツやラムクラスを代役として立てるという気配りはできないのか...
みなさん、多少はそういう気持ちだったと思う。

どなたも、プロからわたしのような単なるディレッタントも、デヴューしたてのダンサーがオシポヴァの代わりをするという度胸を見守りたい、声援したいという気持ちもあると思う。しかしそれはそれ、これはこれなのである。


わたしはこんな険悪な雰囲気のロイヤル・バレエ公演を見たことがない。

客はオシポヴァ目当てのファンだけではなく、純粋に「バレエ」を見に来ている人たちもいるだろうから、ひとくくりにするのは正確ではないかもしれないが、客席では「見る気なし」「本気に声援する気なし」的な、気の抜けて室温になったサイダーのようなダルい空気がありありと、ありありと感じ取られた。

幕が開くと、他のダンサーもぎこちなく、固く、とまどっているような感じがしたのは思い過ごしだろうか。
そして「眠れる森の美女」の、虹の彼方にあるお伽の国のお話を寿ぐハッピーなムードは2幕目のオーロラ姫の登場で最低になった。

わたしはこのダンサーが踊るのを何度も見ている。主役を努めることもあるがまだ数としては少なく、オシポヴァやヌネツが主役の時に脇を固める重要なキャラクターを踊るソリスト。
わたしは、彼女はもしかしたら脇役時代が長過ぎたのではないかと感じざるを得なかった。人は長年割り当てられた役割に釘付けにされてしまう生き物なのかもしれない。
脇役が長いと何をしても「脇役」になるということ、主役と重要でも脇役では期待される華や存在感が全く違うということが明らかになった舞台だったと思う。

緊張マックスというこの状況を差し引いても彼女には主役の華や抗いがたい魅力がなかった。パの決め方は吉田都を彷彿とさせるところがなきにしもあらずだがそれだけで、身体の柔軟性に欠けるばかりでなく、表現力の柔軟性にもかなり乏しい。
ピルエットは回転数が足りず、アラベスクの足がどんどん下がってくる。振り付けはあちこちでスカスカなのが非常に目立つ。音楽が余る余る。また、先日観たラムのオーロラ姫とは振り付けがだいぶ変わっていて、例えばグラン・パ・ド・ドゥのグラン・フッテは完全に省略されていた(後日談:翌日にヌネツのオーロラ姫を見た。やはりグラン・フッテはやはり省略されていたので、このことは公平に書き加えておきたい)。

こんなにがっかりしたのは久しぶり、ロイヤルバレエで初めてかもしれない。


わたしは意地悪な観客になりたくない。若手が主役デヴューするのを応援したいと思っている。
史上最高のバレリーナとて、いつかは年をとり、引退するのだ。次の世代を歓迎し、育っていくのを見守らなくてはバレエというジャンル自体が枯れてしまう。
それに主役級のバレリーナが全員ロシア人のバレリーナになるのもどうかと思っている。バレリーナの体つきや表現力や技術にはよい意味でばらつきがあるべきであり、それがわたしがヌネツやラムを好きな理由でもあるのだ。

しかし、練習の多さや努力、経験ではどうにもならないところに別の次元の天賦の才というものも確実にある。
絶え間ない努力を続けることや、一筋の才能にも恵まれていないわたしが言うのもどうかと思うが、観客なし、批判なしでは成り立たないのが「芸術」。

また、わたしは「よく知りもしないくせに語るな」という語法は好きではない。例えば映画監督(カサヴェテスやゴダールや)の掲示板やブログ等に行くと「素人がカサヴェテスの芸術を語るな」と追い出されるケースがあり、なら誰が「玄人」と「素人」の線引きをするのか? 映画人でなければならないのか? その映画を繰り返し何回見たかか? どれだけ勉強したかか? 否、人はそれぞれその年齢、知性、知識量、経験、文化背景等に合わせて芸術を楽しめばいいのだと思う。その「楽しみ」の多様さによってしか、われわれ人間は「真」とか「神」とか、そういう概念を構成しえないからだ。


ナタリア・オシポヴァには、まさに眠れる森の美女のように十分に休んだ後、さらに強く美しくパワーアップして復活して欲しい。



(高田茜さんが代役で青い鳥のフロライン姫を踊り美しかった。 将来への期待! 期待! 次は彼女のオーロラ姫を見たい)
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宴のあと




連休を利用して、日本から大好きな友が遊びに来てくれていた。

昼に夜に遊び狂ったせいか、彼女が去った今、真っ白な虚脱感を抱いたまま、明日からは1ヶ月間の復活祭休暇が始まる。

宴のあとの寂寞は別の宴で埋めるべしと、ベルギーへの里帰りやスペイン旅行の計画を立てている最中。


なぜにスペイン...

14歳の娘が中学校入学してこの3年間、言語学習としてはラテン語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を履修してきたが、9月から始まるGCSE(16歳で受験する義務教育修了検定試験)の準備のため科目を絞らねばならず、スペイン語をやめることに決めたのだ。

彼女曰く、スペイン語はフランス語ができたらいけるから...ですと。
さぞやおできになるんでしょうな(怒)。

だから3年間の学習の総決算として実地で使い、本当のところどのくらいできるのか、わたしがこの耳で確認するのだ! 行かねばならぬ!


と、夫を説得した(笑)。


(写真はスペインのハムではなく、フランス産の。単に宴が終わったような感じだったので...フランス産のハムも頬の内側が溶けそうなくらいおいしいが、スペインのハムは古今東西世界一だと思う。そうです、ハムを食べに行くのです!)
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春はサウス・バンク いとをかし







春はサウス・バンク!
テイト・モダンを見るのもいいし、テムズ川沿いのホールのどこかで必ずやってるコンサートを聞くのもいいわー。それからゴールデン・ジュビリー橋をゆっくり渡ってトラファルガー広場まで歩くの! で、ナショナル・ギャラリーを見に行くのもいいよね!


夏はマリルボーン。
月の頃はもちろん!
昼間もね、お天気がいいとみんなテラスの席でだらだら飲み始めてるの!
人けの少ない朝方も素敵ね。


秋はメイフェアよね。
夕日が射すバークレイ広場やマウント・ストリート・ガーデンズなんか素敵よ。スーツを着慣れた男性が2、3人、急ぎ足で歩いて行くのもいいのよ。
日が沈みきってから、ホテルのバアで暖炉の火が燃えるのを見ながら食前酒を飲むの、もうたまんないわ。


冬はコヴェント・ガーデン。
雪が降った中、ロイヤル・バレエの「くるみ割り人形」を見に行くのなんか、ほんとにいいわ!
クリスマスのイルミネーションがうるんでいるのも。
すっごく寒くて、分厚いコートと手袋をして寒い寒いって歩くのも、すごく「らしい」の。
観光客目当ての店はめっちゃダサイけどねー。



田舎者丸出し、やっつけでレベルが低く、申し訳ありません。
春の陽気で頭がおかしいんですわ(笑)。
写真はゴールデン・ジュビリー橋からの眺め。中央に聖ポール寺院の伽藍。
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「眠れる森の美女」、カラボスとは何者か




カラボスは、生と死を司る冥界の神ハデスのような人物の一面であり、カラボスはリラの精と実は同一人物である。

神話の世界では生と死、光と闇の神というのはたいていが同一人物なのである。

オーロラ姫は16歳の誕生日に呪いをかけられて死ぬ。しかしこれは死ではなく、長い眠りであった。彼女は愛によって目覚め、結婚する。

つまり、生命力豊かな季節が終わり、大地が死んだようになる冬が来るが、それは永遠に続く大地の死ではなく、春は再生し巡って来る。再生するためには一度死ななければならない。

このサイクルは人間が地球上で生を営む上での死活問題だった。

現代のわれわれは冬の後には春が来ることを知っているが、古代の人たちは春が再生しないかもしれないのを恐れた。
冬枯れが永遠に続くことなく、必ず春が戻ってくるようにできるだけの細工(呪術、儀式、神話、絵画など)をし、確認をしたのである。このお話の場合は類感呪術(雨乞いのようなもの)。

カラボスとリラの精が生死を司る冥界の神ハデスなら、オーロラ姫は大地の女神デメテルの娘ペルセポネである。

......


先週、英国ロイヤル・バレエ「眠れる森の美女」、オーロラ姫/Sarah Lamb 、王子/Steven McRae の公演を。

両者とも安定の美しさだった。
サラ・ラムはかなり緊張していたように感じた。

他に気になったのはリラの精の衣装が妙にダサいことくらいか。

今月末から来月にかけて、Natalia OsipovaとMarianela Nunezのオーロラ姫も見られるので、個別の感想はすべて見てからにしようと思う。


だから今日は「眠れる森の美女」に関して前から書きたかったことを2点ほど書く。

「眠れる...」は古臭いか

カラボスとは何者か

の2点だ。


「眠れる...」が、プロットも演出も含めて古くさいという旨のツイートをいくつか見、そういう感想もあるだろうと思いつつ、「眠れる森の美女」等は古くさい話を知り楽しむものなので、ある程度は仕方がないというのがわたしの意見。

と言うか、これを根本的に変えてもらっては困る。

まず、これは古いお話です、それが今も伝わっているのには訳がありますと観客に理解してもらうのが重要だからだ。その理由は最後に書く。
そして昔話や民話の類いは、時間の流れや展開のゆっくりさなどを含めて楽しむものだからだ。


もちろん演出の細部を洗練させて行くのは必要不可欠(変わらないものとは常に変化し続けているもの)だが、現代の映画やドラマ並みに話が展開するものとは別種の話、と考えた方がよい。

カビ臭が漂うような豪華絢爛な衣装、舞台装置、妖精も、何百年という単位の時間の流れを表現するのに必要なのだ。

これでもロイヤル・バレエ版はだいぶアップデートされていて、観客が退屈しないようにずいぶん工夫されていると思う。特に3幕目の結婚式のお祝いの場面。ロイヤル・バレエ版を古くさいと言う人は、例えばちょっと前(20世紀後半)のマリンスキー等は無駄に長くて耐えられないだろう。


2点目は、常に何でもかんでも話の因果関係を説明しつくすのを好むロイヤル・バレエなのに、カラボスがオーロラ姫の誕生祝いに招待されなかった理由を「単に忘れていた」で済ますのは「へえ、それはそれでいいのか(わたしはいいけど)」と思ったこと。
事実、「忘却」というマイムが、この演出ではいやに多かった。

招待されなかったことを末代まで呪うような重要人物に招待状を出し忘れるというのはありえない。無意識にであれ意図的であろう。
侍従も王も招待リストを再三確認したにもかかわらず名前が漏れている...

それはやっぱり来て欲しくないからわざと招待しなかったか、

「実はその人物は招待されている」のどちらかだ。

(ギリシャ神話に、テティスとペーレウスの結婚を祝う宴席に全ての神が招かれたにもかかわらず、不和の女神エリスだけは招かれなかったという似た話があるが、その話の類型は無視します)


簡単に「眠れる森の美女」バレエ版の筋を荒く説明。バージョンは様々あるので輪郭だけ。

待望の姫の誕生を祝い、王と王妃は宴会を開く。主賓は複数の妖精たち。妖精は姫にそれぞれ贈り物をする。宴もたけなわ、招待されなかったカラボスが怒りながら登場し、「姫は16歳の誕生日に紡錘に指を刺して死ぬ」と呪いをかける。まだ贈り物をしていなかった善の精リラ(ライラックの精)は、「呪いを完全にとくことはできないが、姫は死ぬのではなく100年間の長い眠りにつき、本物の愛によって目覚める」と宣言する。
その後、国中の紡錘という紡錘は破壊される。
16年後、姫の誕生日であり婚約者を選ぶ日。その宴に変装したカラボスがやってきて姫に紡錘を手渡し、姫は誤って手を刺し倒れる。リラの精によって城は深い茨に覆われ、100年の深い眠りにつく。
100年後、麗しの王子がリラの精の導きで真実の愛を待つオーロラ姫の姿を見せられ、彼女を救う決心をする。オーロラ姫は王子の口づけによって目覚める。善の勝利。
結婚式。結婚式ではペロー童話の主人公たちが場を盛り上げる。



オーロラ姫は不幸なことにたった16歳で死ぬ。
いや、リラの精によって100年の「眠り」につく。

この眠りは率直に言って「死」であり(死ぬことを「眠りにつく」という)、100年間というのは姫が転生するまでの長い時間の表現である。
茨はあの世とこの世を分ける「垣根」だ。昔話ではあの世はしばしば茨によって隔てられたエリアだ。

ということは、姫の死に関係の深いカラボスはまぎれもなく冥界の神である。
同時に、カラボスは生命の再生を司る神、つまりリラの精であり、同時に100年後の転生を保証するのだ。

神話の世界では悪と善、死と再生、闇と光の神が同一なのは普通のことなのである(例えばギリシャ神話の冥界の王ハデスは豊穣神でもある。また、ハデスの妃は豊穣の女神デメテルの娘ペルセポネ)。


そうなのだ、わたしは常々、悪の精カラボスとは、善の精リラ(ライラック)の精の一面、暗い/悪の顔だと推理している。

この2人は生と死を司る神であり同一人物だ。

だから上で「実はその人物は招待されている」と書いた。
侍従は愚かにも、招待状をカラボス/リラの、善の顔にだけ宛てて出してしまったのだ。
神は「全」であり、全には善悪の区別はない。善悪の区別は人間がつけるものにすぎない。「死」は人間の目から見てだけ「悪」なのである。


オーロラ姫は16歳で呪われて死にかける。しかし、それは死に似た眠りだった。彼女が眠っている間、大地は死んだようになり、彼女が復活すると世界は再び光に満たされる。

オーロラ姫が眠りにつく時が冬の訪れで、長い冬の後に目覚める時が春の訪れなのだ。

彼女は死んだのではなく、単に眠りについた。つまり春は厳しい冬の後に必ず巡ってくるのだ。

このサイクルは人間が地球上で生を営む上での死活問題だった。
古代の人たちは冬枯れが永遠に続くことなく、必ず春が戻ってくるようにできるだけの細工(呪術、儀式、神話、絵画など)をしたのである。

われわれの生活から切り離せない神話。この古いお話が今に残っている理由である。


さらに詳しく説明すると、オーロラ姫は大地の女神デメテルの娘にして春の女神ペルセポネだ。
ペルセポネが完全に死んでしまうと、地上には2度と生命が戻ってこないのでそれは困る。

ペルセポネは冬の間眠るだけ(地下に住む母を訪問中)だ。その後、必ず春は巡ってくる(地上で過ごす期間)、その魔法をかけるのが、生と死を司る神であるハデスなのである。

わたしがリラの精とカラボスが同一人物だと思うのはこの理由からである。

そうだとしたら、「古代の王」の人格を帯びた王子が、霊力を手に入れるために冥界に下り、霊的な成長を遂げて帰還する、という英雄冒険譚もきれいにまとまる...


ような気がするのだが、いかがでしょう?


カラボスが誰なのかについては「オーロラ姫は何者か、あるいはカラボスとは何者か」にまとめました(2017年2月3日)。
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