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そして月夜がやってくる




前回の記事「日没」を引き継いで、今回は「月夜」を。

バリ島では日の出前の5時ごろには起き出し、22時ごろには就寝していた。
時差ぼけで、英国では妙な時間に活動を始めてしまう...(無事帰国しました!)


アマンの周りにはバアもクラブもないので夜は早い。

...いやそれ以前にわたしはゆるく断酒しているため、月光の下、ガムランの音を聴きながらゆっくり夕食をとった後は、バアでジンジャー・ティーを飲み、部屋のプールに飛び込んでから、熱い風呂に浸かりつつ読書の続き、たまにSpotifyからPolka Dots and Moonbeamsが流れ、プールサイドでもっと月を眺めていたいと思いながらも、這うようにして天蓋付きのベッドに横たわったら10秒で夢の中...

毎日、外出もせずに身体を伸ばしているだけの日々だったのに、とても深く眠れた。




わたしの記事はひとつひとつがとても長い。
前回の「日没」の記事もとにかく長く、目が滑る。
きっちり文を最後まで、記事も最後まで読んでくださる方は少数なのではないかと思っている。
ツイッターやインスタグラムの時代には全く似つかわしくない。
(それでもレヴィ=ストロースは昔から好きだとおっしゃる方や、ぜひ読んでみたいというメッセージもいただいて、舞い上がるほどうれしかった)


日々、何かを経験するたびに、芋づる式にあれやこれやが思い浮かび(芋づる式、というのはわたしの性格の大きな特徴だ)、なぜ? 起源は? これでいいのか? そういうことか! などと...
共感したり、居心地の悪さを感じたり、これとあれは似ているとか、人間は世界をどのように認識するのか、人間は何をもって人間になったのか...
まあいろいろ小人なりに快感を覚え、それを書き留めておきたい衝動が大きいのだ。

月夜を美しくないと思わない文化は地球上にないに違いない。それはなぜ...


ほら、そうこう言っている間に月夜よりもハナシが長くなってきた! 

まるで夏休み明けの校長先生の話である(笑)。
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日没はガムランの調べ




(今日は最後に天女たちの写真を載せたので、文章は飛ばしても写真は最後までぜひ!)


20世紀フランス現代思想の巨星、哲学者で人類・民族学者のレヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯』には『日没』に割かれた章がある。

レヴィ=ストロース大先生の、博覧強記、観察力、人間の可憐さへの眼差し、修辞のすばらしい技術と味わいが、何度読んでも心に染み渡るすばらしい章だ。全部引用したいくらい。


「少しずつ、夕暮れの深い構築が折り畳まれていった。一日中西の空を占めていた塊は、金属質の一枚の薄板に押し延ばされててしまったように見えたが、この薄板を背後から照らしていたのは、初め金色で、ついで朱色になり、さらに桜桃色になった一つの火であった。すでにこの火は、徐々に消え去りつつあった捩れた雲を、溶かし、磨き、そして小片の渦巻きの中に取り上げようとしていた。」
(レヴィ=ストロース著 川田順造訳『悲しき熱帯 I』中公クラシックス 103ページ)




「日没には、はっきり区別できる二つの段階がある。初めのうち、太陽は建築家だ。これに続く、少しのあいだ(太陽の光線が屈折しており、直接射しても来ないあいだ)だけ、太陽は画家になる。太陽が水平線のかなたに姿を消すが早いか、光は弱まり、刻々複雑さを増す見取り図を出現させる。白昼の光は遠近感のある眺望の敵であるが、昼と夜のあいだには、幻想的な、そして、束の間の生命しかもたない構築物のための場が存在するのである。夜の闇と共に、すべては再び、見事に彩られた日本の玩具のようにひらたいものになってしまう。」
(同上102ページ)




「(日没)は始めと中と終わりのある、完全な一つの上演である。このスペクタクルは。十二時間のうちに相次いで起こった戦いや、勝利や、敗北を、縮小された一種の映像として、だが速度を緩めて示すのである。暁は一日の始まりでしかないが、黄昏は一日を繰り返して見せるのだ。」
(同上97ページ)




「日没は、人間を高め、彼らの肉体が今日一日その中を彷徨った、風や寒暖や雨の思いがけない移り変わりを、神秘的な形象のうちに集めてみせるのである。意識の文もまた、空に広がった綿のような、これらの形の中に読み取ることができる。」
(同上97ページ)




バリ島では、日没はガムランとバリ舞踊のテーマである二元論の世界観と、二項対立がせめぎあって生み出す新しいハーモニーによって彩られる。

昼と夜の2つのせめぎ合い、そのはざまに、香るように美しい日没の束の間の時間が生まれるのだ。

この32ビート5音階の音楽は、トランス状態へと人を誘う。個が消え、もっと大きなもの(宇宙とか過去とか人類とか)と同化するような気さえする。
わたしは、ストラビンスキーの『結婚』や、雅楽を思い出す。




かなり中毒性のある音楽と、象徴性も複雑な舞踏で、アマンダリでもアマンキラでも開催の夕べにはつとめて見学に行き、追っかけみたいでここでは言いたくないくらいの回数(笑)見せてもらった。
たぶん天女ちゃんたちは「あのひとたち、まだいる...」と思っているだろう。

特にアマンダリの舞踏グループは、村の少年少女の放課後課外活動としての音楽・舞踏クラスをサポートしており(アマンダリ内でクラスをやっている)、レベルが非常に高い。ダンスの知識が少しでもある人なら、9歳から16歳ほどの少年少女の舞踏の品のよさとレベルの高さが一瞥で分かるはずだ。




これらの音楽と舞踏は、現代ではかなり「オリエンタリズム」化(オリエントをオキシデント=ヨーロッパの思考様式で見た、の意)され、オキシデント=ヨーロッパ好みに加工されているものの、だからといってこれを即座に「観光客用」としりぞけるのもどうかと思ったりもする。

そういえば『悲しき熱帯』にはこんなくだりもある。

「それを退廃や金儲けの証拠と考えることさえも、民俗学的に甚だしい誤りであったと言うべきであろう。なぜなら、移し変えられた形態の陰に、このようにして、先住民社会の特徴というものが再び姿を表していたからである。すなわち、高い身分の生まれの女性の持っている自恃と権威、外来者の前での虚勢、低い身分の人々に対する尊敬の要求などがそれである。女の装いは、その時の好みや気分次第のものだったかもしれない。が、この女を駆り立てていたあのような振舞いは、元の意味をそっくり保っていたのだ。それを伝統的な制度の脈絡の中で復元するのが、私の仕事である」
(同上307ページ)

他の例では、バリ島では火葬の儀式を観光客にも公開するそうで、これをわたしは「葬儀まで金ヅルにするほど資本主義が入り込んでいるのか」と嫌な気持ちになったのが、むしろ、死者を送り出す際に参列者をより多く集め、より規模が大きくより盛大な儀式を執り行うことで、一族の威信と富を示すために意味があり、社会的にとてつもなく大切なのだそうだ。つまり観光客は「枯れ木も山のにぎわい」なのである。

文化というのは決して静的なものではなく、ダイナミック(動的)なものなのだな...
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aman xvi




かっこいい6人乗りのボートをチャーターしてプライベート・クルーズへ。

しかし、覚悟していなかったことが起こった...
珍しく船酔いしてしまったのだ(笑)。




向こうに見えるのは、シュノーケル・スポットに先に到着していた10人乗りのAman XII。

停泊して、夫と娘は海に飛び込んだものの、わたしはついに海の中へ入れなかった。
...どころか、ルーフトップにも上がれず。上の方が揺れるのは物理の法則である。

クリスタルクリアな水、レース模様のような珊瑚、カラフルな熱帯魚。船上からのぞいても白黒シマシマのや、エレクトリック・ブルーの小さい奴らが泳いでいるのが見える。が、下を向くと胃のあたりがムカムカする。

2人のクルーとおしゃべりして気をまぎらわし、あとはひたすら昼寝。

ピクニック・バスケットの中に入れてくれていた生のジンジャー・ティーは、復活に多少の効果があった。
他には炭酸飲料もいいそうですね。腕のツボも押したりしてみました(笑)。




海上から見たアマンキラ。




夕暮れの海が好き。

夕方は、引潮のプライベート・ビーチで過ごす毎日。
バリ島の火山アグン山の噴火(1963年、4年)の火山砂で黒いビーチだ。


この日も夫と娘はボディ・ボードでアザができるまで遊んだが、わたしはカバナに横臥しているだけで身体が揺れ、本を開いたら文字が踊り出し、船酔いが戻ってきた。
陸酔い、というのですね。




夕食は、毎朝朝食に選ぶインドネシアの鶏肉のお粥、ブブ・アヤンを頼もう...




アマンは80年代後半にアジア人のボヘミアン大富豪により、アクセスの相当悪い、静かで広大な敷地に、優雅なヴィラ形式の客室をわずかに作るというコンセプトで発足した。
彼個人の別荘としての建設が、最初の契機だったそうだが。

30年後の今では、バリ島の山の中のアマンダリ周辺には、他のリゾートホテルやキャンプ場が続々進出し、決して完璧に静かな遠い里ではなくなった。

インドネシアに大小18000もあるという、そのうちの小島しか見えなかったアマンキラの沖には、24年ほど前から石油タンカーや、ロンボク島を結ぶ客船が浮かぶようになり、現実と隣り合わせだ。

しかも、アマン・リゾートのオーナー企業がロシア系になってからは、完成したばかりの高層建築型アマンNY、今後企画のあるLAやマイアミなど、「めちゃくちゃアクセスがいい」場所にも、「ヴィラ形式」ではない高層ビル型を含め、続々ホテルが建設される予定だ。

グローバル化とIT革命は、多国籍企業と金融業界の力をますます大きくし、アマンの核になるコンセプトも失われるのが時代の潮流かとも思われる。まあ「アマンの核」自体が、すでにそういうものの萌芽を含んではいるのだろうけれど...
グローバル企業は、資本を投下する国の経済の発展・維持や、その国内での雇用の創出や、学校や病院などの社会資本の整備、納税を「義務だ」とは考えない。そんなことに金を使っていては国際競争に勝てないからだ。
金になりそうなブランドには資本を投下、最大に増やすことに「だけ」に関心がある(だから最近は新しいレザーのブランドだの、チョコレートだのを販売するようになった)。

また、帝国主義的搾取の問題も気になってしょうがないが...

わたしは今でも長く滞在すればするほどアマンが好きになるのだ。

今はしばしクリス・レアの"On the Beach"でも聞いて、失われた時に思いをはせよう。




夕方、海で遊ぶ人のシルエットを眺めているとぐっとくる。
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バリ島 棚田の山、珊瑚礁の海




「その構築物の下側は完全に水平だった。まるで水平線の上方に、或る理解しがたい浮力が働いたために、いやむしろ、目に見えない厚い水晶版が挿入されたために、海の一部が引き剥がされてでもしたかのようだった」
(レヴィ=ストロース著 川田順造訳『悲しき熱帯 I』中公クラシックス 100ページ)




バリ島の夏休みも8月2週が過ぎ、4晩前には水田の広がるウブドのアマンダリから、島東側のアマンキラへ移動した。

今日は夫と娘が早朝からダイビングに出かけたので完全に一人。




わたしは30年前に初めて両ホテルを訪れていて、当時、このホテルのコンセプトがいかに新しく、いかにセンセーショナルだったか、ファッション雑誌や旅行雑誌のグラビアを飾っていたのを覚えている。

今回のバリ島でアマンを選んだのは、娘に、あの時にわたしが受けた感動を伝えたかったからというのが理由の一つだ。

その代表格がインフィニティ・プール。
アマンキラは3段の。

新しいホテルもいいが、大切にメインテナンスされながら「伝説」を守っているホテルもいい。
(などと言いながら、水回りの設備の老朽化などは料金に見合わない。知り合いの家に泊めてもらっている感が風流であると贔屓の引き倒しで言えないこともないけど...この点を含め改めて書きたいと思う)

もうひとつは、もう日本では失われてしまった「アジアの原風景」を見せたかったから。




部屋にもインフィニティ・プール。

こんなプライヴェート空間があるのにも関わらず、メインのダイニングで朝ごはんの後も腰を落ち着けて本を読んだりしているのは、穏やかで静かなスタッフの動きやささやきが心地よく、小さいイタリア人3人兄弟の騒ぎ(その両親がbasta! やめなさい!と繰り返す)さえにもほっこりさせられるからだ。
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神々の島 




インドネシア・バリ島は八百万の神の島。


今も時差ぼけが治らず、夜は19時ごろに強烈に眠くなるが、その後は2時、3時まで起きていて、蛙や虫の大合唱とアユン川の流れを聞きつつ、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』に耽溺...


「だが実際には、夕方と朝ほど違ったものはない。夜明けは一つの序奏であり、日没は昔のオペラでそうだったように、初めではなく終わりに演奏される序曲なのである」(レヴィ=ストロース 川田順造訳『悲しき熱帯 I』中公クラシックス 96ページ)

「音や匂いが色をもち、感情に目方があるように、空間は、それに固有のさまざま価値をもっている」(同上201ページ)

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。制度、風俗、慣習など、それらの目録を作り、それらを理解すべく私が自分の人生を過ごして来たものは、一つの創造の束の間の開花であり、それらのものは、この創造との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを可能にするという意味を除いては、恐らく何の意味ももってはいない」(『悲しき熱帯 II』425ページ)




いや、昼間、客室のプールサイドやあずま屋で本を読みながらうとうとするため、夜は睡眠時間が極端に短いのだ。

そして朝4時ごろ一番鶏が鳴く。

アユン渓谷で濃い香りを放つ森林、山の中腹に漂う雲、プルメリアの花陰におられるたくさんの神様、おはようございます。
(素敵なのはわたしが宿泊している客室も「アユン・スイート」という)。

赤道と南回帰線の間のバリ島の方が日本よりも涼しいってどういうこと? 
適度な湿度があり、日中は28度くらい、夜間は23度くらいで穏やかな風もありかなり涼しい。




アマンダリのシンボル、虎の姿の神様にお供え物を捧げる。




人と神々を取り持つ、神々しくも愛らしい巫女ちゃんたち。天国には天使!
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