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Brugge Style
2019年のフォーシーズンズ、ハンプシャー
夜が早く訪れる分(最近では午後3時には暗くなり始める)
暖炉やろうそくや電飾、暖かい色合いの花や飾りがたくさん
レトリバー君もいるよ
こちらは英国で家探しをしているときに長期滞在をしたホテルで
また、娘の高等学校卒業を祝った場所でもあり
英国生活のはじまり、思い出の場所だ
2つあった優雅なレストランはファミレス風に変わってしまっていて
8年前の面影はないが、
緩やかな丘陵のハンプシャーの自然はそのまま
ここに娘のボーイフレンドと一緒に来るなぞ
8年前は想像もしなかった
15年、20年後かには幼い孫を連れて来て同じことを言うのかも
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antony gormley
Iron Baby, 1999, by Antony Gormley, in the courtyard of the Royal Academy
ロイヤル・アカデミーのコートヤードを歩いていると、ぎょっとする。
本物の赤ん坊ではない、と分かっていても、だ。
人間は、ある3つの点の配置具合を見ると、それを人の顔と認識するようプログラムされている(シュミクラ現象というんですね)らしいが、上の写真のような形状のものを見ると、反射的に「保護しろ」という信号を受信する...と思う。
こうのようにして、われわれの一枚続きの平坦な日常に深く切り込みを入れてくるものとしての「芸術」。
展覧会は「こんなんどうやって作るの?」という大型の作品が多く、とても楽しめた。その中で一番小さいこの鉄の赤ん坊が一番いい作品だと感じたのはわたしだけではないようだった。
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coppelia rehearsal, marianela nunez
コヴェント・ガーデンに出ているロイヤル・バレエのクリスマスツリー
絹のポワントが雨に濡れてもったいないくらい
ピンクのバレリーナは美しくて金子扶生さんのよう
今年のクリスマスと年末のシーズンのロイヤル・バレエは、『眠れる森の美女』と『コッペリア』を交互に公演する。
昨日は『コッペリア』のリハーサルで、Marianela NunezとVadim Muntagirovのゴールデンコンビだった。
レオ・ドリーブの3拍子の前奏曲が演奏されるだけで、まだ幕が上がってもいないのに幸福のあまり胸がいっぱいになる。
複雑な筋もなければ、踊りよりもマイムの方が多く、何よりも雨続きで青空をしばらく見ていなくても、嫌なことや辛いことがあっても、舞台の上には常に光が満ちていることを心から言祝げる作品なのである。
Marianela Nunezという全方向100パーセントのダンサーが、おもしろくもくそまじめに演じているのが何よりもめでたい。
恋人フランツがコッペリア(実は人形)に懸想してしまい、おもしろくないスワニルダ...ほろっとするくらいかわいらしかった。
第3幕にいきなり脈絡なく、曙、祈り、仕事、結婚、戦い(ロイヤル・バレエバージョンにはない)の踊りが入っているのに面食らうが、農村の祝祭の踊りなので...わたしはこの場面を見るとパリのセーヌ川にかかっているアレクサンドル3世橋の装飾を思い出す。
時代背景が富国強兵だったからかな?!
結婚の宴でカップルが時の踊りを踊り、こちらも農村の生活のサイクルを言祝ぐにふさわしい踊りだと思う。
Vadim Muntagirovの両足がまるで大時計の美しい針かコンパスのようだった! ブラボー
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orphee
イングリッシュ・ナショナル・オペラの『オルフェ』を鑑賞した。
音楽はPhilip Glass。
このオペラ作品の原作は1950年のジャン・コクトー監督映画だ。
高校時代、仏映画に夢中になった時期があったため、とても楽しみにしていた...
これ、エディプスものだったの?! というのが大人になったわたしの一言感想。雑(笑)。そちらに関しては後の方で説明する。
意外に映画をそっくりそのまま舞台にのせたような「シネマトグラフの3次元化」がとても興味深かった。
「天才」コクトーは、カメラをレールに乗せて動かすというアイデアを思いつかず、俳優の乗った舞台をレールに乗せて動かして撮影したたそうですよ! それもそっくり舞台上で表現してあり、たいへんおもしろかった。
映画『オルフェ』もまた、ギリシア神話のオルフェウス伝説を、1950年当時のパリに置き換えて映画化したものである。
オルフェウス伝説そのものは:竪琴の名手で詩人であるオルフェウスの妻エウリュディケが死ぬ。彼は妻を取り戻すために冥府に降る。冥界の王ハデスもオルフェウスの竪琴に感動してエウリュディケを地上に返すと同意するが、ひとつ条件をつける。「地上に戻るまでは妻の顔を見てはならない」(見るなのタブー)。しかし彼は振り返って妻の顔を見てしまい、永遠に妻を失ってしまう。
...この伝説のオルフェウス事件は、世界各地に同じ形の神話がある「見るなのタブー」型であり、時間と空間の認識の誕生や、この世とあの世の区別、死というものの可逆性の現実...などを説明するものだと思うが、コクトー版には固有の気になる点がいくつかある。
コクトー版でエウリュディケを死なせ、オルフェを冥界に誘うのは、オルフェに恋をしているオルフェ自身の「死」、つまり死神The Princessなのである。彼女はあからさまにフォリック・マザー「万能の母親」そのものであると思う。
たぶんコクトーはフロイトやラカンに親しんでいたのだろう。
子供は、母親と自分(この組み合わせが「完全な世界」)との間に生まれた絶望的なギャップを、父親のファルスの代わりでもってして埋めようとする。
このギャップを埋める「父親のファルスの代わり」が「象徴」すなわち「言葉」であり、それはオルフェウスが詩人であることと偶然ではないと思うのだ。
オルフェ(子供)は自分が決して万能ではないという限界を受け入れさるをえず、受け入れることによって存在の代理物である「言葉」を獲得する。すなわち彼は「詩人」になったのである。
映像的にコクトーの描いたファルスが画面に描かれるのも偶然ではないと思う。
さらにオルフェが夢中になって解読しようとするのが、この世(「想像界」)にラジオから流れる意味不明の暗号(<「象徴界」からのダダ漏れ)であることも意味深だ。
しかし支配的なフォリック・マザーは彼をやすやすとは手放したりはしない。彼女は執拗に彼につきまとう。最終的に彼女は愛ゆえに彼女自身から立ち去ることになるのだが。
オルフェウスがその才能ゆえに自分の死をも虜にしてしまうとか、愛の力でとかいう説明だけではもったいない作品だった。
(カーテンコールの写真撮影と拡散は奨励されています)
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クリスマスが近づく街
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