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cruise line




季節は巡り、春夏ものが店頭を飾る頃になった。

クルーズ・ラインは完全にブティックの最前線を退き...

秋冬/春夏のはざまに出てくる、華やかで退廃的なコレクション、クルーズ・ライン。
明るいプリントのシルクのミニドレスや、ボーダーのカシミアセーター、紺や白やパステルの一重のコート、エジプト綿のシャツ、カラフルなビーチウェア...


「クルーズ・ライン」という服飾業界用語を日本でも多様するようになったのは、絶対に「あの」80年代のことだと思う。
年末年始にかけて避寒のためにクルーズに出かける超富裕層のためにあるという(<嫌な感じ・笑)数の少ないコレクションを、狂ったように経済的なはずみがつく世の中で売り出したわけだ。
今思うとブルジョア気取りが情けない。若気の至り。


でも日本語で「梅春」と言うよりも、やっぱり「避寒に出かけるためのクルーズ・ライン」と言った方がそりゃ売れるだろう。
ギャツビーの夢みたいだから。
うん、大衆に物を売りたい場合は、ギャツビーの夢と、ギャツビーの夢のコピーもの、またそのコピーあたりを作っておけばいいのかもしれない。

例えるなら、ギャツビーの夢を作り続けているのがラルフ・ローレン。ギャツビーの夢のコピーを作り続けているのが25ans等の雑誌とか、「セレブ」と呼ばれる方々とか。
あるいはわたしが今住んでいる家のような、フェイクの暖炉や、これ見よがしのダッチ・オーブンがある建て売りの安普請のことである(笑)。


おもしろいのは、ラルフ・ローレンはずっとハングリーな夢を作り続けて来た。トム・ブキャナンの生活を誰にでも分かりやすいようにコンパクトなパッケージにして売り出したのがラルフ・ローレンだ。しかし、いつの間にか超富裕層もラルフ・ローレンを使うようになり、ジェイ・ギャツビーの夢がトムの現実と入れ子状態になってきたことだ。
これは「自然が芸術を模倣」した状態、と言っていいのだろうか。いいと思う(笑)。



...結局、まるで「あの男のブルジョア趣味が嫌いなのよ」とか言いながら実は骨抜きにされているような感じで、わたしはクルーズ・ラインが好きだ(笑)。


今年は暖冬のイングランドだが、わたしもそろそろ南下したい。パスポートがない(英国レジデンスビザ申請中につき)ので南下すると言ってもブライトンかポーツマスの先のワイト島辺りしか行けないんですが。そうするとクルーズ・ラインの服を着るのはまだまだ先...ええ、くだらないブルジョア気取りでクルーズ・ライン、買いましたとも。

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フレンチホルンはじめました




こういうことはじゅうぶん時間を取り、試行錯誤と比較検討の結果、選びました...ということになるのだろうと想像していた。


ふたつめの楽器は何を習うか、である。
わたしではなくて、娘。


だが、英国に来て以来見てもらっているピアノの先生(娘の学校でオーケストラなどの指導もしている)に、

「音楽の道を選ぶなら*、ピアノ以外にふたつめの楽器を専攻しなくてはなりません」
「オーケストラにフレンチホルンが足りないのよね」
「プレイヤーも少ないのよ。12歳から始められる楽器だし、あなたもうすぐ12歳でしょう?トライアルレッスンを受けてみない?」

と言われ、あれよあれよとホルンを貸与され、先生が呼ばれ(娘の通う学校は、お稽古の先生が学校へ来てレッスンをしてくれる。だから親はマネージャーになってあちこちのお教室を連れ回す必要がなく、わたしにはうれしいシステム)、家でもぶーぶー吹いてみたりして...

わたしは、先生ちょっと都合良過ぎやしないか?他にも選択肢を与えたらどうだね?他の楽器をさわらせてみてからでもいいんじゃないか?と思った。
ずっと娘が憧れていたハープとか、(わたしが好きな・笑)チェロとか、ベルギー生まれの(意味なし・笑)サキソフォーンとか...


セカンドオピニオンを求めるため、娘はベルギーの音楽学校でとてもかわいがってくれた恩師に相談してみた。この先生はベルギーでは有名な若手作曲家で昨今活躍がめざましく、われわれの自慢のタネ/音楽で困ったらなんでも聞け、なのである。
そうしたら「私は12歳のころフレンチホルンをやりたかったのだけれど、肺活量が足りなくてあきらめたのよ。ピアニストは演奏に熱中すると息を止めて演奏してしまうことがあるから、ホルンはもちろん管楽器をやるのはすごくおすすめです。オーケストラの一員として演奏するのは楽しいですしね」との後押し。

また、2回目のレッスンで「すでにメロディーが奏でられるようになっているとは素晴らしい」とホルン老先生に滅茶苦茶誉められた(先生、分かってますね・笑)ことで、「もっとソロでも映える楽器がやりたい」などと言っていた目立ちたがり屋の娘がすっかりやる気になってしまった。

バッハの無伴奏チェロを娘に弾いてもらいながら老後を過ごす、というわたしの勝手な夢は泡と消えたと...うん、チェロは孫にすすめてみよう(笑)。



ああもしかしたら、人生の大切なことは、損得勘定や、比較検討を重ねたりしたの結果、納得して何かを選び取りましたというよりも、何かの偶然やきっかけや、誰かのひとことや、親が勝手にとか、あるいは単にちょっと誉められたとか、「どうしてホルンなどという想定外のことをするようになったか全然わからないけど、なんとなく始めてずっとその気でやってます」というような「直観」で選び取るものなのかもしれない。

結婚などもそういうものかも。



*ちなみにうちの娘は音楽を専門にする気は全くなく、昔からの学者になりたいという希望は変わっていないようだ。
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flowers of all hue








石渡真紀さん作の和紙の花。

去年11月、誕生日のプレゼントとして頂戴したもの。型を元に、贈り主と作家の方があれこれ相談して作って下さったそうだ。
夕焼けのような色合いがすいこまれそうに美しい。


Flowers Of All Hue And Without Thorn The Rose...
ミルトン「失楽園」の一節、この「花」とは人間のことである、と英語の先生が言っておられた。




下のかごは小野里奈さん作の錫製で、こちらも友人からの贈り物。
錫、大好き。錫は柔らかく、このかごも形が変えられるのです。



誰かがわたしのために選んでくれた美しいものに囲まれて生活できる幸せ。

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デミよ。




「何が怖いかと言えば、人生の最後になって自分が愛される人間ではなく、愛される価値がないと気付いてしまうこと。自分に何か根本的な問題があると知ってしまうこと」

健康問題を抱え、治療を受けることになったデミ・ムーアが、去年の暮れの離婚発表後にこう語ったそうだ(ロイター、2012年1月4日の記事)。


記事の前後が分からないのでこの部分だけを取り上げてコメントするのは公平ではないと思うが、離婚後の不安の中で彼女が語ったとカッコつきで引用されている、と断りを入れつつ...(もしかしたらこの後に「でも...」とポジティブな巻き返しをして最後きれいにまとめたインタビューだったのかもしれない)


わたしが何が怖いかと言えば、49歳にもなった人間が、人生の価値は「愛されること」にあると思っているらしき点だ。それが根本的な問題だ。

人生の折り返しを過ぎ、最後になったら、愛されるより愛する人間にならなくてはならないと思う。

若い頃デビューした女優さんだから、ちやほやされて今まで来たのだろうなという想像はできる。それでも「愛」を知るのに美人女優さんも一般人もないのである。

愛は自分が相手に差し出すものである。
たぶんこの世で好ましいと思われているものは、自分が受けるものだと思われがちだが、愛も、尊敬も、知性も、勇気も、希望も、お金も、すべて自分が差し出すものなのだ。

セントエルモスファイヤーの頃ならまあ仕方がないけれど、愛を他人からスタバのラテのように受け取れるものだと思っている限り、彼女の具合は良くならないだろう。


早く治るといいね。
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夢のあとさき




セール中のウィンドウに商品の欠けが目立つようになり、やっとクリスマス/正月気分が抜けたようだ。

わが家も、クリスマスイブから続いたベルギーから日本からの来客が去り、検疫期間を終えた飼い犬をやっと迎え、日常生活をルーティーンに戻すスタート地点によろよろと立った。

あと少しすれば「もう3月!」と驚いてみせ、もう少ししたら「今年も半年過ぎた!」とか「年月が束になって飛んで行く」とか言うのだろう。


...



年末年始。英国人がクリスマスにかける熱情には驚いた。
これはもうベルギーや日本とは次元が違う。

ラジオから古今のクリスマスソングが常に文字通り常に流れ、人々はいかに準備を進めているか熱く語る。街に出ると買い物にいそしむ人の群れは殺気だっており、クリスマス用に販売される商品の数も質もクレイジーだ。
何事も「クリスマス」のためにされ、「クリスマス」のためにされない。

25日を過ぎたら過ぎたで、どんなクリスマスだったか、という話題。そして次のクリスマスへの抱負。そのうち新年が来る。次第に人々は魂が抜けたみたいになる。いくらなんでももう立ち直っているだろうが(笑)。

...このように書いてもその熱狂の度合いは伝わらないだろう。
日常の秩序や常識を超えた行為が許されるのが祭りなわけではあるが、あまりに暴露的で初心なわたしにはショックが強すぎた。英国サッカーファンの大騒ぎもひょっとしたらこんな感じなのだろうか。今年のロンドンオリンピックもそうなるのだろうか。


この、過剰で嫌な感じは、

ー英国が民主政治とやテクノロジーと資本主義の恩恵に預かった「大衆」社会であり、
ーそこに住む大衆は「他人と自分が同一であると感じて、かえっていい気持ちになる」人々で(自分は他人とは違っている、と全員が思っているところもそっくりだ)、
ー「ただ欲求のみを持っており、自分には権利だけあると考え、義務を持っているなどとは考えも」せず、
ー「凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする」

のが露見してしまうのがクリスマスシーズンだからなのかもしれない(「」内はオルデガ「大衆の反逆」からの引用)。


知性も教養も品格もない人間が、民主政治と資本主義のおかげで小金と権利を手にし、文化や歴史に敬意を払うこともなく、また未来に対して責任感も使命感も持たず、自分の低俗な趣味や欲望を検討もせず開陳しあらゆるところにのさばり、あらゆるところに押し付けてくる...(もちろんわたしも自分をそんな「大衆」の1人であると喜んで認めよう)



こんな社会は英国だけではない。たまたま民主化、テクノロジー、資本主義が世界中でも特に進んでいる国のひとつである。が、かすかに無常観漂うベルギー(だってベルギーは建国わずか170年だし、国は分裂、通貨は崩壊の危機にあるし)から来たわたしには、オルテガが80年前に述べたことがここではっきり見えたような気がしたのである。


わたしの人生も折り返し地点を過ぎた。
今後の人生は自分自分の生き方ではなく、共同体の成熟した一員として生きたいと思う。

毎年言ってるけど今年は頑張ります(笑)。
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