もうこの辺で江漢については、終わりにしたいと思っていたのですが、彼の晩年に書き残した「春波楼筆記」を紐解いて行きますと、それを読むに従って、この江漢という人の魅力と言いましょうか、人間としてのその奥深さがにじみ出ているようで、もう少々、私の町吉備津からは遥かに遠ざかってしまうのですが、彼の人物の大きさというか、その人間性を追求してもいいのではないかと思い書きなぐっていきたいと思います。
これを読んでおりますと、彼が、当時の日本人の人間観をいかに見ているか、それを読みとる事が出来る文章に出逢います。それからご紹介します。
江漢が「写楽ではないか」と言った関係上、先ず、それに関して、(その3)とでも言いましょうか、それからご紹介します。それは、今の時代なら一つの小品さへ何百万円という値段が付くと思われるのですが、あの円山応挙に付いて書き残しています。
「京師に応挙と云う画人あり。生は丹波の笹山の者なり。今日に出てゝ一風の画を描出す。唐画にもあらず。和風にもあらず。自己の工夫にて、新意をだしければ、京中之を妙手として、皆真似して、甚だ流行せり。今に至りては、夫も見あきてすたりぬ。・・・・・・・」
と書いて、その画風について特別の評価まではしていません。
「見あきてすたりぬ」です。もうほとんど顧みる者はいないとさへ評しているのです。「妙手」。そうです特別な技を持つ者として、単なる絵描きの職人としか評価しか与えていないのです。描いている物の心髄にまで到達した画ではない。単なる、つまらない絵に過ぎないとさへ酷評しています。その持つ技におぼれてしまっている絵になってしまっていると評論しているのです。現代の彼への評価とは格段の差でしか評価していません。あんまり高くは買ってはいなかったのです。形式化され過ぎているかのように受け止めていたのではないでしょうか。
大変面白い見方だと思われます。彼応挙の絵を、こんな風に見たのは、当時の日本に置いては、彼の他にはいなかったのではないでしょうか。
ものをものとして見て、その本質を描くにはいかなる技方を用いるべきか深く研究しているように思われます。応挙的ではない、写楽の画そのものではないかと思えるような思いが、この文章からも伺えますが、どうでしょうか??????
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます