私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

写楽は江漢だ?その2

2011-05-11 09:34:32 | Weblog

 こんなへんてこりんなテーマで、書いてみたのですが、反響が大きく、といってもわたしのブログに於いてはという事ですが、昨日のアクセスランキングが、なんと数年ぶりですが閲覧数818PV、訪問者数は186IP、順位は9941位になりました。

 そんな数字を見て、天にも昇る心地がして、ついつい有頂天になり、「いい気なもんだ」という事は、十分に分かりきっているのですが、あの筆敬氏に何と言われようと、私の江漢の写楽説を書きなぐってみます。よろしく。

 さて、話がとんでもない方向に進んでしまったのですが、その江漢説をもう片方の面から探ってみることにします。それもまた、「春波楼筆記」からです。

 「画は、貴賤共に好むものにて、別けて彩色すれば、俗眼に入りやすし・・・吾日本にて、始めて工夫したる事は一つもなし

 と書いて、日本の絵は総て、唐の描き方の真似で、日本独自の絵というもの「一つもなし」、と断言しているのです。更に、江漢は、続けて次のようにも言っています。

 「画の妙とする処は、見ざる物を直に見る事にて、画は其物を真に写さざれば、画の妙用とするところなし

 妙とは一体何を言うのでしょうか?
 それを探るための、先ず「見ざる物」について考えてみました。「見ざる物」とは、只、その物の形や色だけを写し取る事ではなく、その本質、それ自体の中には見えない奥に潜んでいる美しさ、を写し取らないと画とは言い難く、其物の「真」、即ち本質、を見てそれを写し取らなくては駄目だと、江漢は説いているのです。単に形や色を其れなりに写すのでななく、自分の心の奥の目を以て描かないといけないと、訴えているのです。妙用とは、非常に優れた作用、働きです。
このように考えて行くと、結局、「妙」とは、自分の心で見た真だと江漢は考えたいたのではないでしょうか。

 本質が見えてない画は画ではない、そんな物は、今までの日本には一つもない。だから、私がその本隋を見せてやる江漢は写楽になって「画」とは何ぞやという事を、人々に見せたのだと思います。結果的にどうなったのかは、ご存じの通り、その原因など一切不明のまま、名前と共に、10カ月という短期間で、忽然と世の中から消し去ってしまわせるのです。春信のように。

 そんな事をお考えくださって、次の絵をご覧ください。私の偏見に満ちた主観的考察?からですが、江漢の写楽なりと考える元になる物です。それが画なのです。

 

                        

 

 

 

 

 

 

 

 


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