私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

鯉山小学校の入学式

2010-04-13 17:24:28 | Weblog
 昨日12日は我が町吉備津「鯉山小学校」の入学式で、29人のかわいい1年生が生まれました。この29と言う数字に、少々さびしさも禁じえなかったのですが、在校生と
新一年生がしっかりと腕を取り合って、勉強も運動も共に充実した個性あふれる学校にしてもらいたいものです。
 この鯉山小学校の入学式に参列して感じたのですが、最近の小学校の入学式は、昔とは随分違って驚いています。
 まず、驚いた第1ですが、それは新入生の名簿です。男の子も女の子も一緒にして、あいうえお順に、それも名前が総てひらかな書かれているではありませんか。一昔までは、生年月日順に、まず、男子がいて、次に女子が続いていたのですが、近頃は、民主的な男女平等な社会なので、男の子も女の子も平等に並んでいるのです。それでもいいのかもしれません。私は旧式な男ですので、何もそこまでしなくてもいいのではと思いました。 
 9日に高松中学校の入学式にも参列したのですが、ここでは今までどおりの男の子が先、その後に女の子が点呼されていました。そのほうかすっきりしているようにも思われますが。どうでしょうね。

 次に驚いたのが、女の子の名前です。ものすごく個性的というか、どう表現したらいいのでしょうか、変わった名前がずらりと並んでいるではありませんか。昔のような○○子だの○○江だのという名の子がほとんど見当たらいのです。

 今年の鯉山小の新入生の女の子の名前を上げて見ます。時はあたかも春の真っ最中です。その春の百花繚乱の如くにあでやかさが、その名前からも浮かび上がってきます。

 あい、いつは、こころ、まいこ、くるみ、のぞみ、えりな、みか、あやか、まなか、もえ、ののか、はるの、めぐみの13人の女の子でした。

 どうですか、すごいでしょう。
 
 この名前を見ていると、ちょっと悪戯心を起こしたくなって、並び替えて見ました。

  「めぐみ燃え 春のあやかし 試みか 真中にくるみ 鐫(えり)なそ明 」

 と。
 まだ、この中に入りきれない名前が3人います。ほっといては、この子達に悪いような気がして、意味も減ったくれもありません、前の歌もそうですが、どうにか形だけ整えばと、めちゃくちゃに並べて、それらしく形にしてみました。

  「何時遥か 春の舞い込む 野の香かな」

 歌にも何にもなってはいないのですが、そんなん雅な感じの入学式でした。その雰囲気だけでも、ひらかな?ではない、感じ(漢字)取っていただけたらと思います。

 まあ、そんなことを考えながら、この子たちに幸あれと祈りながら、かわいい子供たちの入学式に参列しました。

我が町吉備津です

2010-04-12 08:09:05 | Weblog
 また、今年も古今亭菊輔さんが吉備津にきました。

 彼は真打ち昇進以来、どんな縁があったのかは知りませんが、金友写真館のスタジオが落語寄席に早変わりして、彼の独演会がもう11回も催うされています。

 とってもちっぽけな寄席です。3、40人も入ればいい方です。そんなこじんまりとした吉備津寄席ですが、これも、また、どうしたことかわ知りませんが、遠く倉敷の高田さんやその他赤磐からの御客さんを迎えての寄席です。
 
 私は今回が4回目になります。毎年ごとに、彼の芸に幅を感じています。
 体全体を使って噺を聞かせてくれます。指一本にも艶があります。修練の為せる技だと思います。
 人に噺を聞かせるのです。センスと手拭でしょうかその一本が噺の小道具です。後は何もありません。体で聞かせます。「話が見える」と言った方がいいかもしれません。
 それが話芸なのです。
 「習うより慣れろ」では、決して、本物の話芸にはならないと思います。「修」でなくてはと思います。
 噺を言葉で「見せる」のが落語だと思います。聞かせるのであったなら「習」で十分だと思います。
 毎年一回ですが、菊輔さんは芸を見せていると思います。見せるとは、噺に陽と陰があるということです。でも、まだまだ、いっぱいの噺のもつ色艶、いぶし銀みたいな渋みは出し切れていないのではと、今年の独演会を見て思いました。

 それは、1時間半の噺の中で、今年は、「あ、間違えたな」と、聞いている私にも分かる場面が2回ありました。
 かって、お酒を飲んで高座に上がり、噺の途中で寝てしまったのですが、それがまた落語になったと言う噺家の伝説的なお話を聞いたことがあります。どうしてかしらないのですがねむってしまっても不思議ですが落語になったと言うのです。

 そんな超名人の神様みたいな噺家はそんなにいるわけではないですが、噺の途中で、たとえ、間違えても、咄嗟に間違えたことを聞いているお客に、それと気付かせないぐらいの話術の修練は必要だと思いました。
 「習」では、決して、できることではない、「修」にこそと思いながら聞いておりました。そんな意地の悪い聞き方をしながら、どこぞに欠点はないかと笑いながら聞いておりますと、此の独演会があっという間に終わり、また、一年後の再聴?が楽しみにできます。

 これが私の1年1回の楽しみの一つでもあるのです。

 そんな町我が吉備津です。

竹の筒

2010-04-11 12:17:39 | Weblog
 ちょっと、また、例の通り横道にそれますのをご勘弁ください。
 というのは。この「宮(七里)の渡し」について、一九のあの「東海道中膝栗毛」を紐解いてみることにします。
 宮から桑名まで七里28kmの船旅です。大名の、この海の行程は、1里が1時間程度だったそうですから、7時間の船旅で、一日の行程でした。しかし、普通の旅人が乗る舟は3~4時間で宮から桑名まで渡れたのです。
 
 それはそうと、弥次さん喜多さんが、此の船旅で一番心配したのが、小便の事でした。そうです、舟には、当然、便所の設備がある筈がありません。
 弥次さんたちが泊った宿の亭主は、その小便対策として舟用の小便器「竹の筒」を用意してくれます。多分サービスであったのではと思われます。、折角、頼んでいた「竹の筒」を、此の亭主がうっかりしていて忘れたために物語が新たに展開していきます。滑稽本の真骨頂です。
 宿の亭主が急いで取りに戻ります。船が出るの時間が決まっていたのかどうかは分かりませんが、とにかく、大急ぎで、船の中で要を達するための「小便用竹の筒」持ってきます。既に、舟に乗っていた弥次さんに取ってきた竹を投げ入れます。受け取って弥次さんたちは驚きます。それは「火吹き竹」だったのです。ご存じ息を吹きかけて火を勢いよく燃やすために作られた道具なのです、竹の筒の先に小さな穴が開いているのです。小説では、これを使って、弥次さんたちがまた大失敗します。女性は、これをどう解決したのでしょうかね。江戸時代の旅にはそこいらの苦労も沢山あったことは確かです。

 また、広重の絵からも伺われるのですが、宮から出る舟には、砂浜から細い板を伝って登っていたのではと思われます。築港はなかったのす。それから、決まった舟が出る時間等もなかったのではと思われます。午後からは出なかったとかも言われていますが、よく分からないのだそうです。舟の大きさも一体いくらぐらいあったか分かっていません。
 こんな細かい決まりはどうも、この港にはなかったようです。時間割なんてひち面倒なものは作られてはなく、潮や風の加減で、大仰に運行していたように思えます。
 「ふねがでるぞー」という呼び声が唯一つの決まりではなあかったかと思われます

 
 

宮より舟に乗り

2010-04-10 10:48:36 | Weblog
    

 広重が描いている「東海道 宮」には少なくとも3種類の絵がある様ですが、此処にあるのはその一枚です。
 宮。そうです。熱田神宮のある所なのです。
 此処にある広重の絵は、次の宿「桑名」に渡る渡し船の舟付き場「七里の渡し」があった付近の様子です。そこからあわただしく綱政侯の一行は舟に乗ったのです。その時の模様を次のように書き記されています。

 「十八日宮より舟にのりて海上を渡るに、しぐれ降り、かくして行衛もみへはかざりしに、浪より雲の出るやうになん侍れば

   曽古となく あをの海原 かきくらし
             しぐるる空に つづく白波」

鳴海にて その2

2010-04-09 21:17:09 | Weblog
 「奈留美川哉」とありました綱政侯の鳴海での歌についてですが、「川」ではどうもおかしいのです。「川」の代わりに何か万葉仮名が使われていたはずです。

 これですと、どうしても「なるみつかな」としか読むことができません。何かいいヒントになるものでもないかと捜しました。
 すると、此の明暦3年の「はつのぼり」より6年後の寛文3年に、再度、江戸より岡山までの歌紀行を綱政侯は記されています。
 その時には、鳴海には泊ってはいませんが、朝、鳴海を舟で渡る時詠まれた歌に

   明けゆけばかぜも追手に〈なるみがた〉わたる小船のやすき行末
 
 と、読まれています。

 この歌から思うのですが、明暦の鳴海の時の歌「奈留美川哉」ではなく、「奈留美片哉」ではなかったのではと思います。なお「心許曽」は、その後に「須礼」があったのではと思われます。

   おもいやる こころこそすれ ふるさとは くもいのよそに なるみがたかな

 そうすると意味もよく分かると思いました。どうでしょうか???

 なお。鳴海の夜に、
 「夜更くるほど、時雨のふりければ、ちどりの声の聞ゆるも心ぼそく、

  小夜しぐれ しほのみつらん 友千鳥
             いかに鳴海の うらみてやなく

 と歌っています。

 

鳴海にて

2010-04-08 13:51:58 | Weblog
 「八橋の跡をながめて」、そこまで行って、しみじみとじかに見るのではなく、道の通りすがりにその辺りを見るぐらいな感じだと思います。
 その日の泊りは鳴海なのです。
   

   
 
 この広重の「鳴海」には雲は書きこんではありませんが、綱政侯は、「故郷をおもうに、幾重の雲をへだて来ぬらんと、猶ゆかしく覚えて」と、記しています。

 何時頃に着いたのかは分かりませんが、「幾重の雲をへだて」、そうです。幾重にも伸びた夕焼け雲が、この広重の絵の中に広がっている様子を想像してみてください。
 人や馬や駕籠などの夕影も長く伸びていて、いかにもが旅情をそそる絵にはなりはしないかと思います。多分、夕方の5時頃ではなかったてしょうか。
 
 江戸期、早駕籠で3時間に4~5里行ったと言われています。大名の駕籠です。1時間に1里程度の速度しかなかったのではと思われます。そうすると、鳴海に着いたのは12時間ぐらい後の午後5時頃ではなかろうかと思います。
 
 そんな夕焼け雲や鳴海の風景を見られた綱政侯は、随分と遠くへ来たもんだなという気持ちがつのり、生まれ故郷「江戸」に限りない愛着を覚えられたのではないでしょうか。
 そんな感慨が、万葉仮名を使った歌として現われています。なお、万葉仮名を使っての歌は、明暦の歌紀行では、ここで歌った歌だけです。

 於毛伊屋流 心許曽婦類佐登盤、雲井能余所似、奈留美川哉

 と書かれています。
 「おもいやる こころこそふるさとは くもいのよそに なるみつかな」
 と読めますが、それでは一寸可笑しいようです。誰か読み解いていただけませんか。

江戸出て8日目

2010-04-07 15:24:16 | Weblog
 「17日御油の宿りを出て、赤坂のすへにつきぬ。明ぬる空にたちまちの月の山の端に残り・・・・」
 
 「御油の宿りを出て・・・」とありますが、江戸時代の旅は、いったい何時頃出発したかと言いますと、御存じ「お江戸日本橋」の歌にも出てきます。
 
  「お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ

 ここにあります「七つ立ち」とは「暁の七つ」(午前3時から4時頃)に出発することです。「初のぼり」とは江戸に留め置かれた大名の子が家督を継いで初めて領国に帰ることと思われます。

 この歌が流行ったのは天保の頃だそうですから、この西国の雄藩備前岡山藩主綱政侯の初めてのお国入りとは、全く関わりがある歌ではありませんが、歌われている内容からも分かりますが大名の旅、そう大名行列そのものもは、藩にとっても、また、大名自身にとっても精神的肉体的経済的に大変な行事だったことが分かります。

 綱政侯の行列は、神無月のです。普通なら、遅くとも午前4時頃には御油を出ているはずです。赤坂で明けぬる空にたちまちの月の山の端に残っていたのが見えたのです。五時か六時頃だと思われます。それから池鯉鮒(ちりゅう)を経由して鳴海までの約10里(42.3km)の行程です。
 池鯉鮒と鳴海の間にある「昔の八橋あとをながめて」進みます。
 昔と違って江戸の初め頃には既に「八橋」はなく、只、その地名だけが残っているだけだったのです。このに現在でもかきつばた園がありますが、明暦の当時もにあったのでしょうか、八橋の「かきつばた」だと聞いて、業平に思いを馳せて歌を詠んだのだと思います。

    むらさきの ゆかりの花は 名のみして
             あわれくちぬる 八橋の跡 
 あの業平が「かきつばた」の五文字を織り込んで詠んだ花は、今は冬枯れて、すっかり朽ちてしまって哀れな姿をとどめている八橋であることよと、言うぐらいな意味だと思います。何か旅の哀愁がにじみ出ている名歌だと思われます。

 19歳の綱政は「きつヽなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、江戸にいる恋人の事を、此の八橋でも、また、思い出していたのではなかろうかと想像しています。その思いは、その夜の宿りでもあった鳴海まで続いています。

 

 

舞阪より船で

2010-04-06 09:37:47 | Weblog
 「たびたヽずはあらずかしとおぼゆ」と、綱政侯は舟に乗ります。
 「急て程なき仮寝ながら、身もくるしくやありなん、おもほへずまどろみぬうちに白須がに着ぬ。・・・」


 16日の歌紀行では、綱政侯はこう書かれています。

 これについて、又、寶泥氏からメールです。

 「おめえが きのうけえとったもんのなけえのう〈急て程なき・・・〉ちゅうもんがあったろうが。こりゃーなんとよみゃあえんだ」と、いうのです。

 「急て」。待てよ、そんな字を書いたかなと読み返してみました。確かにありました。何と読めばいいのでしょうか。書いた私もその時には何気なく、そんな読み方なんてあまり気にもかけずに、迂闊にも、書いただけでした。「キュウテ」でもないし、「イソイテ」?、何となくおかしいし。どう読むんでしょうかね。
 

 それこそ(急で)漢和辞典を取り出しました。
 辞書には何やかやとその意味が説明してありました。
 〈かたくな〉〈さしせまった〉〈ゆとりがない〉〈にわか〉(きびしい〉〈あぶない〉〈ひきしまる〉〈けわしい〉などと。
 
 「漢字」と言うものは、本当に面白いものですね。欧米の文字では、こんな感じは決して起きないと思います。漢字を使える我々日本人は、改めて「幸せ」だと思えます。韓国あたりでも、ハングルだけでなく、もう少し漢字を使おうじゃないかと言う運動が起き出したと、つい最近の新聞に報じられていましたが、まんざら突拍子でもない、朝鮮の人たちのいつわりのない気持ちではないかと思えます。漢字を共有している民族みんなが持ってい今日的な意識ではないでしょうか
 感じを大切にした漢字の持つ魅力だと思います。
 「急」と言う字から、見ただけで、何となしに、差し迫ったゆとりのないあぶなかしい状態が目の前に自然と浮かび上がって来るから不思議ではありませんか。中国人であろうと朝鮮人であろうとベトナム人であろうと共通の意識ではないかと思います。
 
 さて、この「急て」は「セイテ」と読むのだそうです。あの“せいては事をしそんじる”の「セイテ」なのだそうです。

 今日はちょっと漢字のお勉強で・・・・・お粗末でした。御意見を賜りたいのもです。

交通安全運動

2010-04-05 17:53:35 | Weblog
 学校の新学期と共に、今年も、明日から、春の交通安全運動が始まります。
 
 我が町吉備津では、この運動を少しでも盛り上げようとして、各町内ごとに交通安全旗を掲げ交通の安全を願っているのです。
 私の住むでも、吉備津神社参道へ4本、山神様の鳥居へ2本、観音院へ1本、真金一里塚へ1本、備前と備中の国境の境目にある石の道標に1本、計9本の旗を立てました。

 一里塚、国境を示す道標。これからでも分かるように、私たちのの中を旧山陽道が通っています。江戸の昔には。多くの旅人がしげく往き来していたはずですが、今では、時折、これをこの辺りでは、「テンショニ」と言っています。物好きだと言ってしまえばその旅人に叱られるとは思いますが、旧山陽道の探索の旅に訪れるくらいが関の山です。
 これに対して旧道を外ずして新しく出来た国道180号線には、各種の自動車が、それこそ唸りを上げて「テンショ」どころの話ではありません。ひっきりなしに通り過ぎて入っています。

 そんな大量な車を見ながら、我々町民は、ここが昔の山陽道だったという言い伝え以外は何もない誠に侘びしげなこの旧山陽道の道筋から、ささやかではありますが、唯、安全旗を掲げて「ご安全に」と、祈るだけです。
  

舞阪ーたびたヽずはあらずかし

2010-04-04 18:18:17 | Weblog
 綱政侯の歌紀行は続きます。

 「十六日舞阪の原にて舟よそふ。抑此ところはけふまで来しかたにはまためずらかなり。北南は渺々としてはてなし、唯漁人・釣客などの住家にやあらむ、よにこころぼそく、げに所せき身は、たびたヽずはあらずかしとおぼゆ。それより舟に乗ぬ。・・・・」

   
 
 舞阪に着いた綱政は、この宿場町が何となく広々として捉え所なくものさびしげで、宿すには値しないと感じます。その思いを「たびたヽずはあらずかし」と表現しています。
 そんなことで、此の舞阪は素通りして、次の宿に向います。その宿が浜名湖の向こうにある白須賀宿でした。

「急て程なき仮寝ながら、身もくるしくやありなん。おもほへずまどろみぬるうちに白須賀に着ぬ。波の音も、夢の内覚めれば、

  梶まくら 漕ぎゆく跡も 白須賀の
            わたりの波は 夢に見えつヽ」

小夜の中山越え

2010-04-03 17:17:32 | Weblog
 明暦3年の神無月の旅で、綱政侯は、大井川の川渡しの人足に、「いく瀬の波に心ゆるすな」と呼びかけたのでしたが、更に、その6年後の寛文3年の江戸からの参勤交代の時にもこの大井川で歌を次のような歌を詠でいます。
 
 「暮れかかるころ、大井川を渡るに水は浅く侍れども、尋常の川にはあらず、おそろしき波いはんかたなし
    
     吾妻路の 大井の渡り 幾度か なれてもやすき 心こそせね

 四瀬ことゆへなく渡りて、金谷のみまやにやどりぬ・・・・。

 面白いのは綱政侯は自分が泊った宿を「みまや」といっています。ここでも下世話に通じている一面をのぞかせています。

 綱政侯の、明暦の東海道下りは金谷では泊らず、菊川から小夜の中山を越えます。

    越えゆけば 猶とほざかる故郷を 夢にも見せよ 小夜の中山

 西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」が、又「あづま路の小夜の中山なかなかになにしか人を思ひそめけん」と言う紀友則の歌も、当然この綱政の歌の裏には、あったことだろうと思います。
 自分は西行のように年を取ってはいない。これから何回となく小夜の中山は通ることになるだろう。自分の生まれた江戸の人々、恋しいあの人が、せめて夢の中にでも出てくれれば、ますます元気が出るのだがなあ、というくらいの人生の希望が満ちあふれている青春の歌です。

   
   

大井川を渡る

2010-04-02 16:53:07 | Weblog
 神無月15日島田を出て、綱政侯の一行は、大井川を渡っています。その時の歌です。

     「東路の 大井の川の 浅くとも いく瀬の波に 心ゆるすな」


   
 

   大井川を渡るには、この広重の浮世絵のよう川を渡す専門の人夫に依頼するか自分で一人で渡るか、いずれかの方法で渡るしか他はなかったのです。舟も有りません。まして橋などは禁止されていました。江戸を外様大名から守るために家康が決めた決まりだったのですが、時代が進み、人や物資の交流が多くなったのですが、「橋を作ってはだめです」と言う決まりは、それはそのまんま徳川幕府の時代270年間も、明治政府になるまで続いていたのです。人々の不便より決まりの方が優先さた時代だったのです。
 
 橋もない舟もない大井川を渡る綱政侯は、大藩である岡山藩の大名です。駕籠に乗られたまま、絵のような方法で渡ったのだと思いますがが、その御籠から人夫が歩む川底を見えます。大井川の流れは速いし、瀬の中は苔むした滑りやすい石がごろごろしています。そこで、人夫達に「十分注意してくれよ」と、呼びかけた歌なのです。

 私が子供の頃は高梁川でよく遊んだものですが、流れが速い瀬には大きくなったアユがたくさん泳いでいました。「アユは瀬に付く」と言われ、瀬には、そのアユが好んで食べる苔が石に付いており、そのために川底はいつも大変滑りやすくなっているのです。瀬ですから小石や砂ではなく、10cmぐらいの石がごろごろしていて、誠に滑りやすいこと限りなしだったと覚えています。

 それを19歳の綱政侯は何処でかは知らないのですが、その川底の石ころの状態を知っていたのだと思われます。だからこんな歌が作れたのです。

 そんなことを思うと、この歌は大名が作る様な歌では決してないように思えます。俗っぽい言葉ですが、綱政侯は、よほど「下世話に長けていた」のではないかと思われます。

「綿貫」って知っている

2010-04-01 09:50:15 | Weblog
 又、朝からメールが届いています。寶泥氏が言います。
 「おめえは、〈弥生〉の説明に、書紀の中から、神武天皇が吉備の国に来た時が春三月で、それを〈やよい〉と言わした日本で一番初めの事じゃったというんじゃがのう。今日は4月1日じゃ。その書紀にゃあ「4月」はどうけえておるんじゃ。やっぱし卯月か。ちょと捜してみて、ちいでにおせえてくれんかのう」
 と。

 早速、本棚の奥に閉っている「日本書紀」を取り出してみました。
 なお、私の持っている日本書紀は、江戸の末の天保の頃に作られた本で、相当に傷んで、どうにか本の形を整えていると言った方がいいようなオンボロなものです。

     

 この本に、春二月を〈きさらぎ〉、夏四月を〈うづき〉と、ルビをふって読ましていますが、「如月」「卯月」という語は載ってはいません。
 なお、これも〈うづき‐卯月〉とは全く関係はないのですが、チョビットですが、吉備の自慢になりますので書いてみます。
 
 書紀には、神武は、三年間、吉備でその軍備を増強されたと書いています。でも考えて見ると、他所の国からやってきた、所詮、他所者に対して、当時、この相当な強大国であった誇り高き吉備の大王が、そう易々と「神武」の軍門に下る訳がないと思います。そこらあたりの状況については、この書物には何の記述もしてはありません。一方、古事記には、九年も、この吉備にいたと書かれていますから、神武の軍門に下るまで、相当の激しい戦い等があり、この吉備でも神武は苦労を重ねたことは確かなことではないかと想像しています。なお、吉備の国には、神宮皇后が、三韓征伐の時に、2万の軍隊を集められたという話も残っていますが、それとこの神武との話が一緒になったいるのかもしれません。

 どのような争いがこの土地であったのか、それともなかったのかは、歴史書には、一切は記載されていませんが、兎に角、神武は、この吉備で軍備を増強して東に向います。そして、着いた所で〈奔潮(はやきなみ)が有って、太急(いとはやき)に会います。直ぐには上陸できなかったのです。それにも相当な困難が伴ったのではと思われます。
 そこで、神武は、そこを「浪速(なみはや)」と名付けます。それが「波華(なみばな)」と訛って、今の「難波(なには)」にと変わっていきます。その浪が速い埼、難波に上陸して、更に、「春三月(やよい」)には河内の国に、「夏四月(うづき)」には瀧田(たづた)と言う順で東進して行くのです。ここに〈うづき〉と言う言葉が出てきます。これが〈うづき〉と言う言葉が使われた最初ではないかと思われます。古事記には「詞志比(かしひ)の宮」の所に〈四月之上旬〉とあり、それを〈うづきのはじめつかた〉と読ましています。
 時間的に考察すると、こちらの方が瀧田の方より随分と早い時期になりますが????

 なお、旧暦四月は、この神武天皇の時から、づっと〈うづき〉卯月呼ばれていたのですが、それは、卯の花が咲く月だからそう名前が付けられたのだと説明がなされてきましたが、弥生と違って、これが4月を卯月という呼び名となった真の原因であるかというと、案外、そうでもなく、異説ぷんぷんなのだそうです。

 その異説の一つと、太陽が出る方向が卯辰の方向からだと言うのもあるようです。本居宣長の言うように、三月の〈弥生〉以外は、睦月・如月・卯月など、どうしてそう呼ばれるようになったのかはよくわからないのだそうです。

 さて、この四月の呼び名としては、此の「卯月」の他に、花残り月、正陽月、余月、陰月、巳月、中呂、朝月、乾月、孟夏など、今ではすべて死語になっているような聞いたこともないような言葉が並んでいます。総て旧暦の四月ですから、新暦でいえば五月の事ですから、まんざら意味が分からないと言う事でもありませんが。でも、陰、余、巳、乾など何故だろうかと思いめぐらさせられます。

 なお、古い記録によると、今日、四月一日〈朔日〉は、特に「綿貫」と呼ばれていたのだそうです。今では全くの死語ですが。一年ほど前までは永田町辺りにいた人の名前に見たことがあるように思えますが。
 
 この「綿貫」は、陰暦の四月一日、宮中の夏に移るための衣替えが行われた日だったためにこう呼ばれたのだそうです。綿の入った(綿入れ)の冬用の着物から綿を貫いた単衣の着物「あはせ」に替える日であったから「綿貫」なのです。
 そう言えば、私の子供時代は、「綿貫」と言う言葉は使ってはいなかったのですが、「綿入」と言う言葉をしばしば耳にしていたと思います。冬用の着物をまとめて一般にこう呼んでいたのです。
 
 
 あ!また悪い癖がでて、今日も、とんでもない方向に進んでしまいました。お許しください。明日からは綱政侯に歌紀行に戻ります。