私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

我が町吉備津です

2010-04-12 08:09:05 | Weblog
 また、今年も古今亭菊輔さんが吉備津にきました。

 彼は真打ち昇進以来、どんな縁があったのかは知りませんが、金友写真館のスタジオが落語寄席に早変わりして、彼の独演会がもう11回も催うされています。

 とってもちっぽけな寄席です。3、40人も入ればいい方です。そんなこじんまりとした吉備津寄席ですが、これも、また、どうしたことかわ知りませんが、遠く倉敷の高田さんやその他赤磐からの御客さんを迎えての寄席です。
 
 私は今回が4回目になります。毎年ごとに、彼の芸に幅を感じています。
 体全体を使って噺を聞かせてくれます。指一本にも艶があります。修練の為せる技だと思います。
 人に噺を聞かせるのです。センスと手拭でしょうかその一本が噺の小道具です。後は何もありません。体で聞かせます。「話が見える」と言った方がいいかもしれません。
 それが話芸なのです。
 「習うより慣れろ」では、決して、本物の話芸にはならないと思います。「修」でなくてはと思います。
 噺を言葉で「見せる」のが落語だと思います。聞かせるのであったなら「習」で十分だと思います。
 毎年一回ですが、菊輔さんは芸を見せていると思います。見せるとは、噺に陽と陰があるということです。でも、まだまだ、いっぱいの噺のもつ色艶、いぶし銀みたいな渋みは出し切れていないのではと、今年の独演会を見て思いました。

 それは、1時間半の噺の中で、今年は、「あ、間違えたな」と、聞いている私にも分かる場面が2回ありました。
 かって、お酒を飲んで高座に上がり、噺の途中で寝てしまったのですが、それがまた落語になったと言う噺家の伝説的なお話を聞いたことがあります。どうしてかしらないのですがねむってしまっても不思議ですが落語になったと言うのです。

 そんな超名人の神様みたいな噺家はそんなにいるわけではないですが、噺の途中で、たとえ、間違えても、咄嗟に間違えたことを聞いているお客に、それと気付かせないぐらいの話術の修練は必要だと思いました。
 「習」では、決して、できることではない、「修」にこそと思いながら聞いておりました。そんな意地の悪い聞き方をしながら、どこぞに欠点はないかと笑いながら聞いておりますと、此の独演会があっという間に終わり、また、一年後の再聴?が楽しみにできます。

 これが私の1年1回の楽しみの一つでもあるのです。

 そんな町我が吉備津です。